日本キリスト教団

西千葉教会

この世という荒れ野の誘惑

2020年04月

 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

マタイによる福音書 4章10節〜11節

 聖書の中で人間が初めて誘惑に負けてしまったのは創世記三章のエデンの園での蛇によってです。神に食べてはいけないと命じられた善悪の木の実を、蛇から「神のようになれる」と唆されて食べてしまった、あの誘惑です。この箇所でも同じように、目に見える表面的な行為に対してよりも、「神のようになる」ことへの願望が誘惑の本質になっていると言えます。つまり、誘惑とは「自分にとって良いことだと思える事柄の中にこそ存在する」ということです。
 ここで悪魔は主イエスの弱さに働きかけていません。「神の子なら、これらの石をパンにしたらどうだ」と、神の子であるゆえに何でもできるという強さに働きかけています。二番目の誘惑も同じです。私たちは信仰を持ち、聖書の御言葉によって生かされていますが、御言葉は悪用されることがあるのです。主イエスを神殿の屋根の端に立たせた悪魔は何と言ったか。「神の子なら飛び降りたらどうだ。『神はあなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」と、詩編九一編の言葉を引用するのです。なんと悪魔は主イエスに対して聖書を引用し、自分の言葉の正しさを証明しようとしているのですから、実に手強い相手です。
 つまり「私の信仰こそ正しい」という思いの中にこそ悪魔が付け入る隙があると聖書は告げるのです。私たちが信仰者として神に支えられている一方で、それが自分の強さだと勘違いしてしまう時、信仰は誘惑へと変わってゆきます。
 最後に悪魔は主イエスを高い山に登らせ、この世の国々や繁栄ぶりを見せたとあります。それは「見える世界」のことです。しかし実は悪魔との戦いの場は「見えない世界」でのことなのです。神の愛も、天使たちの奉仕も、人の心も、見えない世界の話だからです。
 実際、私たちは誰もが目に見えない世界との関わりをもって生活しています。私が入院していた時、四歳の長男が絵を描いてプレゼントしてくれました。その価値は値段で表せるものではありませんが、それを受け取った私にとっては、どんな高価な贈り物よりも価値あるものでしたし、今でも宝物です。確かにこの世には辛いことや悲しい出来事がたくさん起こります。でも見えない世界において私たちが神の愛を信じ、揺るぎない希望を与えられているとすれば、その苦しみをも希望に基づいた意味のあることとして受け止められるようになるのです。
 悪魔の最後の誘惑は、主イエスがこれから歩もうとされる道が苦難の道、十字架の道であることを知っていた証拠です。だから悪魔は、そんなことをしなくても私を拝みさえすれば、この世のすべてをあなたに与えようと言うのです。目先のことに心奪われながらこの世に生きる私たちは、この悪魔に自力で打ち勝つことはできません。それを主イエスは悪魔以上に知っておられました。だからこそ主イエスは私たちに代わり、その宣教の始めに叫ばれたのです。「退け、サタン! ただ主に仕えよ」と。
 この叫びは、実は悪魔に対して言われたというよりも、この世を生きる私たちへの励ましのエールなのではないでしょうか?
主イエスは全き神であり、全き強さの中にある方です。同時に主イエスは全き人として生き、強くあることを求められませんでした。徹底的に弱さの中に身を置かれ、十字架の死に至るまで徹底的に自らを低くし、私たちの罪を担うために歩まれた方でした(フィリピ二:六―八)。私たちが繰り返し強さを求め、この世の荒れ野をさ迷う者であっても、否、だからこそ主イエスは神の子であることに固執されず、常に誘惑される私たちのために十字架へと向かい、弱く、低く生きてくださったのです。
 
主よ、受難節の歩みの中で、絶えず高さ強さを求めようとする私たちを憐れみ、十字架の死に至るまで従順であられた御子イエス・キリストの下に置いてください。

文:真壁 巌 牧師