日本キリスト教団

西千葉教会

主は本当によみがえられた!

2020年5月

 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。

ヨハネによる福音書 20章13節〜14節

 ある牧師が英国留学中、イースター前夜の土曜日から始まる聖公会の復活徹夜礼拝に参加した体験記はとても興味深いものでした。特に礼拝の最後にある「派遣」の後で、礼拝参加者一同が会堂の外に出て行き、「世界に向かっての宣言」を行う場面が印象的でした。
司祭が教会の前に立ち、夜の街を行き来する人々にこう叫ぶのです。
 「恐れることはない。わたしは、あなたがたが十字架につけられたイエスを捜していることを知っている。その方は死からよみがえられ、あなたがたの前を進み行かれる。来て、見なさい。ハレルヤ!キリストはよみがえられた!」
 すると、会衆が応答します。
 「主は本当によみがえられた!」
 さらに司祭は人々に言います。
 「キリストの光と平和のうちに
 出て行こう ハレルヤ!」
ところがそれに対し、道行く若者たちの中から「ヒューヒュー」と冷やかす声がするというのです。
主の復活を街中に告げ知らせようとする教会と、それを冷かしながら通り過ぎてゆく人たちがいる。これは英国だけでなく、世界中の教会がその地に建てられた時から経験していることかもしれません。復活は誰にとっても起こり得ないことですし、弟子たちやマリアにとっても同じだったと思います。
 復活の主イエスはマリアの後ろに立っていました。ところが、マリアは自分の名を呼ぶその人がよみがえられた主イエスであることに気づきません。なぜでしょう。マリアの目は遮られています。主イエスの死に対する悲しみと辛い思いばかりする人生への恨みに心を奪われていたのです。復活の主は、そんなマリアとは反対の方角に立っていました。主は命を携えて立っています。辛い心を抱えるマリアや私たちに、復活の命を与えるお方として、墓(死)とは正反対の場に立っておられるのです。
 ここで注目すべきは、マリアが復活の主に出会う前と出会った後では、決定的に違うことが生じたということです。マリアは最初、こう言っています。「わたしの主が取り去られました。どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります。」中心にあるのは「わたし」です。彼女には、まず自分自身があって、その自分が、まるで主イエスを抱きかかえるようにして信じていたのです。 
 復活の主と出会う時、ここが変わるのです。「わたしが」から「主イエスが」に変わる。人生の主語が入れ替わるのです。主イエスは言われました。「わたしにすがりつくのはよしなさい」(17節)と。これはマリアを突き放すような冷たい言葉に聞こえるかもしれません。しかしここにもメッセージがあります。すなわち「わたし」が中心ですと主イエスにすがりつきます。もちろん苦しい時や辛い時、主イエスにすがるように祈ることはあります。聖書はそれを否定してはいません。ただそれ以上に聖書が示しているのは、「わたし」が中心ではないという信仰です。 
 マリアは墓の中を覗き込んでいました。主イエスに対してとても熱心なのです。しかし心は奪われ、目は遮られていました。マリアは自分の心に縛られていたのです。「わたしのイエス様がいない」「何でわたしの人生はいつもこうなのか。」だからこそ主イエスは、そんな彼女に声をかけられるのです。「マリア。わたしだ。わたしはここにいる」と。ここで人生の主が入れ替わります。「わたし」を中心にして自分自身に捕らわれる歩みから、主イエスを中心にして神に心の目を向ける歩みが始まります。それは自分がいて当然のように生きるのでなく、神の慈しみの中で生かされている喜びと感謝に満ちた歩みの始まりでもあります。
 信仰生活は復活の主イエスとの出会いによって与えられるのです。自分の名を呼んでくださっている主イエスを発見する時、私たちも声を大にして叫ぶことができます。「主は本当によみがえられた!
 この世界のために。ハレルヤ!」

文:真壁 巌 牧師