神の御計画
2020年07月
人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
ローマの信徒への手紙 8章27節〜28節
牧師である恩師が癌を患って手術し、順調に回復して退院した際に口にした言葉が忘れられません。「なんだかんだ言ってもやっぱり、厄年っていうものはあるね。」
よくお寺の本堂の前に厄年に当たる年齢案内板が掲げてありますが、私自身も大病した際、「前厄」の年齢であることを知りました。もちろん、厄除けなどはしませんでしたが、大勢の人々が厄除け祈願している姿に病気や事故といった災いを避けようとする人間の自然さを感じたものです。
しかしこの時、同時に私の脳裏に浮かんだのは、宗教改革者M・ルターが残したある言葉でした。
「何の試みも無く、万事好調である時こそ、最も危険な試みである。その時、人は神を忘れるようにそそのかされ、大胆になり、幸運の時を誤って用いるようになる。」
28年前、青森県黒石教会の牧師をしていた時、肝臓障害で半年もの闘病生活を経験しました。この辛い経験を振り返る時、「万事を益とされる」神のお働きと、何一つ無駄にされず救いのために用いられる神の御計画を知らされます。
では病気して何が益であったのかと言えば、他人の苦痛に同情し、共感できるようになったこと(それまで希薄であったことは確か)。自分の弱さを知らされ、謙虚にさせられたこと。死と向き合わされ、信仰がこの世にある時だけの喜びではないという確信を持たされたということ(牧師としては恥!)。そして何よりも生きていることが当たり前ではなく、病気はそれを告げる神の恵みですらあり得るという自覚を与えられたことです。
私たちにとって最も身近な試練は病気でしょう。どんな病気でも二つの方向から問題を提起します。一つは医学的問題提起で、病気とその発生原因を考えさせられます。二つ目は霊的な問題提起で、その病気が与える意味を探ることです。原因と処方については医学が答え、意味とその克服については信仰によって神ご自身から答えを聞くと言えます。それは特別な賜物を持った人だけが理解できるというのではなく、すべての人々に神様が気づかせてくださる恵みです。
ニューヨーク大学の研究所の壁に刻まれている「病者の祈り」は、その事実を雄弁に語っています。
「大事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに/慎み深く従順であるようにと弱さを授かった。より偉大なことができるようにと健康を求めたのに/より良きことができるようにと病弱を与えられた。幸せになろうとして富を求めたのに/賢明であるようにと貧困を授かった。世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに/神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに/あらゆるものを喜べるようにと生命を授かった。求めたものは一つとして与えられなかったが/願いはすべて聞き届けられた。神の意に添わぬ者であるにもかかわらず/心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。私はあらゆる人の中で/最も豊かに祝福されたのだ。」
「生物学的に厄年というものはある」という論理には頷けます。でもこの世は決して「運命」という星のもとに置かれてはいません。病気や挫折といった試練の中にも、神の御計画があることを信じます。それは弱い私たちにとって簡単なことではありませんが、だからこそ「〝霊〟自らが言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」(26節)ことを信じましょう。
聖霊が私たちのためにうめきながら一緒に神に向かって祈ってくださるのです。だから祈りは私たちの思い通りにならないのかもしれません。しかしそのようにして私たちは神の御心にかなう道に導かれているのです。それこそが万事を益としてくださる道でしょう。今、新型コロナウイルスによる試練の中で私たちはここに集められ、改めてその御心を示されています。
神の御計画に抜かりはありません。
文:真壁 巌 牧師