日本キリスト教団

西千葉教会

神が求められる愛

2020年09月

 わたしは、人からの誉れは受けない。 しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。

ヨハネによる福音書 5章41節〜42節

 主イエスは38年間も病気で苦しんでいる人が疲れ果てているのを見て、放っておくことはできませんでした。だからそれが安息日律法に違反する罪に当たると知りながらも、救いの手を差し伸べられたのです。そんな主イエスを、ファリサイ派のユダヤ人たちは受け入れようとしませんでした。 それどころか律法違反の罪で宗教裁判にかけ、死刑を宣告し、十字架にかけて殺してしまったのです。
 しかし主イエスを取り巻く全員がそんな殺意を抱いていたのかと思いながら聖書を読み進めてゆくと、「議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」(12:42―45)とあるのです。冒頭に掲げた聖句、「わたしは、人からの誉れは受けない」と言われた主イエスとは実に対照的です。つまり、主イエスに同調し、信じる者さえいたにもかかわらず、彼らは自己保身のため、恐くてそれを口にできなかったのです。
 80年前に日米開戦を決議した面々の中にも「アメリカ相手に勝てると思わない」という人が多数を占めていたと言われています。しかし誰も「負けるからやめよう」とは口にできませんでした。なぜでしょう。大和魂を持った軍人、官僚としてそれはできないことだったのです。その結果、数えきれない犠牲者を出しました。しかし当時の国民も言えませんでしたし、今を生きる私たちにとってもそれは他人事ではありません。
 そして主イエスを十字架へと追いやった人々は、いい加減な気持ちでそうしたのではありません。彼らはごく真面目な人たちでした。主イエスが、「あなたたちは、モーセを信じた」(46節)と言っているように、彼らはモーセ律法に対してはこの上なく忠実で、その意味では「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神を愛する」人々でした。しかし、この「神への愛」が、隣人を愛して生きられた「主イエスを殺す」ことにつながったのです。これは、世界史の只中で起こった最大の矛盾です。そして、この悲劇は今日も繰り返されているのです。つまり、すべての戦争が「正義」を唱えることによってなされるように、熱心に正義を唱える人々ほど他者を裁き、殺すのです。「神を愛する」と言う人々が隣人を殺す。恐ろしいことに原理主義化された神は人を殺し、その神の前では皆が黙るのです。
 有名なマハトマ・ガンジーは、主イエスの山上の説教に感銘を受け、「絶対非暴力」を掲げて民族和解のために献身的に働いたインド独立の父でした。そのガンジーを殺したのはヒンズー原理主義者でした。その時、暗殺者は「ああ、神よ!」と叫んだと言われています。今もパレスチナの人々に終わりなき苦しみを与えているのもユダヤ教原理主義を信奉するイスラエルですし、キリスト教原理主義者たちはそれを正当化して支援してきました。それに対し、イスラム原理主義者たちは「聖戦」を叫んでテロを繰り返しています。これが私たちの世界の惨めな現実です。 
 しかし主イエスは、モーセ律法を重んじると言いながら隣人を平気で殺す人々に向かって、「あなたたちの内には神への愛がない」(42節)とはっきり言われました。それは「隣人への愛を欠いた神への愛」など存在しないということに他なりません。
 「我と汝」の著者であるM・ブーバーは「愛は我の内にあるのではなく、我と汝の間にあるもの」と言いました。つまり、「愛は私の心の中にあるものではなく、私と誰か私でない隣人との間にあるもの」ということです。愛は二人以上の人が出会わなければ生じないのです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)と言われた主イエスの言葉には、その真意が込められています。神が求められる愛は、自分が納得できる愛ではありません。

文:真壁 巌 牧師