先立って洗礼を受けられた 主イエス
2020年10月
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
マルコによる福音書 1章9節〜11節
私たちは、神様に導かれ、教会にて洗礼を受けました。
教会の門をたたいたきっかけはみな違いますが教会員は、主イエス・キリストを私たちの救い主として信じ、主を受け入れたということです。教会では洗礼を受ける際、洗礼に向けての学びの時を持ち時が来て受洗します。本日の箇所から改めて思わされることは、主イエスは私たちに先立って洗礼を受けられ、あらゆる点において私たちと同じようにしてくださった事です。
マルコによる福音書1章9―11節の箇所は、主イエスが、ガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた事、主イエスが洗礼を受けられた後、天が裂けて霊が鳩のように降り「あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえた事が書かれています。
洗礼は、イエス・キリストを信じた者が,キリストのみ体である教会に加わり,キリストに対する信仰を見える形で公に表明するために受けます.
洗礼は、私たちが受けるものであって主イエスが受ける必要はありません。しかし、主イエスは、私たちに先立って洗礼を受けられました。
主イエスは、ヨハネから洗礼受けられた後、10節に「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、霊が鳩のようにご自身に降って来るのをご覧になった」と書かれています。「霊が鳩のように」は、主イエスが洗礼を受けられた時、神の霊が動き始め、主イエスに降って来た、新しい時の始まりです。
ヘブライ人への手紙2章17節に「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」とあります。神の憐れみ故、私たちを罪から償い出すために神が人になられたことに留まりませんでした。私たちが神に召されて洗礼を受けるように主イエスは先んじてあえて洗礼を受けてくださいました。そういう意味では、主はあらゆる点において私たちと同じようにしてくださいました。そしてこうも思う。主イエスは私たちと同じ肉体を取られ、私たちの悩み、苦しみに心から同情することができるお方であるということです。
主イエスは、天にて私たちの姿を見ていることに留まらず、私たちのところに来てくださって、私たち以上の苦しみを担い歩んでくださったのです。その歩みは、十字架への歩みでもあります。主イエスは、地上にて福音宣教をし、人間の罪を目の当たりにしました。その罪と格闘し、その罪を担い、父なる神様と祈りの交わりを通して日々立ち上がり歩み続けてくださいました。そして十字架にかかり罪を贖ってくださいました。神の怒りを御子が負うことによって、神と私たちとの関係が和解され、私たちの罪が赦されて歩むために主が、人となられ、ヨハネの洗礼を受けたことも私たちは忘れてはいけません。
イザヤ書53章に「罪人の一人に数えられ」とあります。主イエスに罪はありませんが、神が人となって罪人の一人として洗礼を受けられた。あらゆる点において私たちと同じようになられました。
イエス・キリストが私たちに先んじて、洗礼を受けてくださいました。それ故私たちが洗礼を受け神の子とされ主と共に永遠に生かされて歩むことができます。これからもキリストを見上げ、教会において主イエスを賛美し、主に慰められて歩みたい。「本当にこの人は、神の子・イエス・キリストです」と告白できる幸いを覚えます。
私たちは、父、子、聖霊なる洗礼を神と教会の御前で受けました。そして聖餐に預り、み言葉を深く聞くものとされました。そして、神に祈り慰めを与えられるようになりました。それは、主が父なる神様に従順に歩んだ故に与えられた恵みです。主がここまでしてくださった。主のお働きにありがたい。そう思わずにはおれません。神の子イエス・キリストのおかげで、私たちは、主を賛美し、主を頼り歩む事ができるのです。
私たちは、楽しい時も試練を負い歩む時も神様の保証の中、主と共に歩みます。
天に昇り神の右に座されている主の執り成しの恵みを受けて。
文:川添 義和 副牧師