主の弟子として選ばれた理由
2020年11月
イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。
マルコによる福音書 3章13節
主イエスが弟子として選ばれた「これと思う人々」とはどういう人たちだったのでしょう。「山に登って」とありますが、それは12弟子をお選びになる時、徹夜で祈られるためでした。祈りによって神様の御心を知り、その御心を行おうとされたのです。では御心に適った弟子たちを見てみましょう。
最初に登場するのがシモンです。シモンは後に「ペトロ(岩)」というあだ名を主イエスからつけられます。それは教会の土台になるという祝福に満ちたあだ名でしたが、彼は決して立派な弟子だったわけではなく、「岩」と言っても自己主張の激しい、自我の固い人でした。
ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟には「ボアネルゲス(雷の子ら)」というあだ名がつきました。おそらく二人は大変気性の激しい人間で、怒鳴りあって意見を戦わすようなこともあったのでしょう。
アンデレはペトロの弟ですが、ヨハネ福音書では一番先に弟子になり、兄を主イエスに紹介した人です。ところがアンデレの名前はいつも四番目に出てきます。地味な人で、兄のペトロとは正反対の人だったと思います。
フィリポはアンデレと親しかったようで、性格的にもアンデレと同様に人を紹介するのがうまい人で、馬が合ったのかもしれません。その一方で、自分の思ったことを率直に言う人でもありました。
バルトロマイは別名ナタナエルとも言います。主イエスから「まことのイスラエル人」と称された人ですが、あまり行動的なタイプではなかったようです。
マタイは徴税人でした。徴税人というのは今の税務署の職員とは全く違い、ヤクザまがいの仕方で人々からお金を巻き上げていた人々です。そんな人までが主イエスに招かれて弟子となったのです。しかも、やがてはマタイ福音書を世に残す人となるのです。
トマスは復活の主イエスが弟子たちに現れた時、たまたまその場にいませんでした。そのため「主を見た」と言って喜んでいる他の弟子たちに、「私は主の手に釘の跡を見、この指を釘の後に入れてみなければ、またこの手をわき腹に入れてみなければ、決して信じない」(ヨハネ20:25)と言い張ったのです。しかし真実を知り、信仰を保つと、全身全霊でそれに応答する忠実な弟子となりました。
アルファイの子ヤコブとタダイですが、聖書にこの二人についての記述はなく、よく分かりません。また熱心党のシモンもよく分からないのですが、熱心党とはローマからの独立を願う国粋主義集団で、その信念を貫くためにはテロ活動さえする過激なグループでした。当然、ローマの手先であった徴税人(マタイ)とは水と油の関係です。そんな両者を使徒に選ばれていることに大変驚かされます。
最後はイスカリオテのユダです。彼は主イエスを銀貨30枚で売り渡した弟子です。彼は大変実務に優れ、現実的な人でした。ナルドの香油を主イエスに注いだ女性に、「そんな無駄なことをするなら、それを売って貧しい人々に施せばよかったのに」と考える人でした。それだけに主イエスの真意がどうしても理解できませんでした。
こうして12人一人一人を見てみると、本当に様々な人がいます。誰一人として同じではありません。この中には、主イエスの弟子となるための一定の基準など見出せません。では主イエスが祈られ、彼らを選ばれた理由は何でしょう。
よく私たちは「信仰が未熟なので他の人に」という思いを口にします。それは謙遜なようで、違うことが多いです。自分が働いて神様を助けなければならないという思いがあるために、出来るとか、出来ないという思いを口にするのです。しかし神様は「私を助けてほしい」とは言われません。そうではなく「私を必要としてくれる人が必要だ」と言われるのです。
選ばれた12人は、決してこの世的に優れた人間ではなかったでしょう。しかし主イエスが呼び寄せられると、そばに集まって来た人々でした。つまり自らの欠けや破れを自覚している人々こそ、主が「これと思う人々」なのです。
文:真壁 巌 牧師