日本キリスト教団

西千葉教会

希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。

2021年01月

 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。

ローマの信徒への手紙 12章12節

 2021年の年間主題聖句としてローマの信徒への手紙から「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」が示されました。使徒パウロによるこの勧めは、初代教会がしばしば国家や社会からの迫害や憎悪にさらされていたことと関係して、どんな困難の中でも神の助けを信じて希望の火をともし続け、忍耐の道をも歩み続けることができるようにたゆまず祈りなさいとの励ましが込められている言葉です。
 昨年は新型コロナウイルスにより世界中が翻弄され、今年に入っても終息の目処は立っていません。西千葉教会も四月から礼拝はライブ配信となり、教会員にはしばらくの間自宅待機をお願いしました。六月になってようやく礼拝や祈祷会に参集できるようになりましたが、予定していた活動や諸行事はほとんど中止・延期となりました。聖餐式や愛餐会、家庭での集会も二月以来一度も行えていません。
 ある先輩牧師が「戦時中でも、こんな経験をしたことがない」と言われたのが印象的でした。今や目に見える相手でなく、見えない相手に世界も教会も震撼させられているのです。しかも未だに終わりの見えない闘いでもあります。
 そんな禍中で祈りによって示されたのが冒頭の年間主題聖句です。
まず「希望をもって喜ぶ」とはどういうことでしょう。Ⅰコリント13:13には「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る」とありますが、「希望」は信仰において不可欠のものです。その希望とは主イエスを通して示された神の愛が与える希望です。神は大切な独り子を犠牲にしてまで私たちを愛し、救い出してくださいました。その神の愛がある限り、私たちは決して滅びることはありません。
 パウロにとって喜べる希望の理由はもう一つありました。それは主イエスが再臨され、この世の救いが完成する終わりの日への終末的希望です。彼は別の個所で「現在の苦しみは、将来、私たちに現されるはずの栄光に比べると取るに足りない。被造物はすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっています。この被造物だけでなく、私たちも神の子とされること、体のあがなわれることを心の中でうめきながら待ち望んでいます」(8:18以下)と書いている通り、終わりの日の希望が彼を生かし、力を与えたのです。
 今も世界は混乱と困窮と悲しみが満ち、希望の見えにくい状態ですが、私たち(教会)には神から与えられている希望があるのです。
 そして「苦難を耐え忍び」です。「耐え忍ぶ」には「あるものの下に留まる」という意味もあります。苦しみの下にしっかりと留まり、そこで生きるのです。パウロにとって苦難とは迫害を意味しました。私たちの人生には迫害だけでなく、貧困・病・人間関係など多くの苦難があります。この苦難をどう耐え忍ぶのか。何よりも神の愛によってです。希望の源泉が神の愛にあるからこそ、この愛によって苦難を耐え忍ぶことができるのです。
「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(5:3以下)とあります。パウロは「キリストのために苦しむことも恵み」と言いましたが、私たちキリスト者に与えられた苦難は恵みに変えられるのです。神の愛と希望が苦難を恵みへと変えてくださるからです。
 最後は「たゆまず祈りなさい」です。そのためには私たちの心が日常の生活においても神に向かって開かれ、生ける神の前で、神と他者と共に生かされている自分を意識し続けることが大切なのです。この祈りこそが信仰者の希望と喜び、そして忍耐の土台となります。
 この12節の原語を直訳すると「希望において喜びつつ、苦難において耐え忍びつつ、祈りにおいてたゆむことなく」となります。主イエスを信じて主に仕えつつ、聖霊の炎によって力を与えられて、兄弟愛に生きようとする者は希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈るという切り離すことのできない祝福の内を歩むことができるのです。

  祈るなら 祈るなら
  キリストの光といのちが
  閉ざされた扉を押し開き
  主の霊の風は吹き渡る
  (1999年主題聖句曲 「祈るなら」より)

文:真壁 巌 牧師