日本キリスト教団

西千葉教会

主に招かれた人々

2021年02月

 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

マルコによる福音書 2章13節〜17節

 本日の箇所は、収税人レビが登場します。レビは普段通り収税所に座っていたのでしょう。ところが、その日はいつもとは違いました。主イエスは湖のそばに来て大勢の人たちが主イエスの周りに集まり主イエスは福音を語られました。
 主イエスはレビが収税所に座っているのを見て「私に従いなさい」と言われました。「彼は立ち上がってイエスに従った」。と書かれています。神の国の到来によって悔い改めて福音を信じる時がそこまで来ている。主イエスは神の国の福音を語る弟子としてレビを選び収税人レビは、主イエスの言葉に従いました。レビは、主に選ばれた。レビも主の言葉に従って歩んだ。その事実のみが書かれています。
 神の恵みを受けた者たちは、神に従うよう召されます。主の言葉そのものに真の権威があり、レビは主の言葉に従い、主イエスに従いました。
 主イエスに従ったレビの思いは、15節のみ言葉から分かります。「イエスがレビの家で食事の席についておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた」。なぜ、レビは、多くの人たちを自分の家に招いたのでしょうか。主イエスが私に目を留め、声をかけてくださったことを心から喜んだからです。    
 17節に「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが、来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と書かれています。ここで言われている罪人とは、神から与えられた戒めを守らない人たちです。主イエスの周りには罪人と言われた人達が大勢食事に招かれました。ユダヤ人たちから見れば奇病な光景です。罪人と言われている人達とは食事をしないからです。しかし主イエスから見れば、ユダヤ人も異邦人もない。神様の御前ではみな罪人です。罪という言葉は神様に背を向けて自己中心に歩むことです。ユダヤ人たちは、割礼を受けて神の民とされていました。けれども、彼らも罪を犯し、祭司の元に行き、ある時は贖罪の捧げ物を捧げ、ある時は、償いの捧げ物を捧げなければなりませんでした。そうでなければ、ユダヤ人もファリサイ派と言われている人たちも、イスラエルの共同体の中では歩むことができませんでした。そういう意味ではユダヤ人を含めて、すべての人たちは神の前では罪深い者たちです。
 神様から見れば、みな神様に招かれるべき者たちです。
 レビは世で言われている罪人たちを食事に招きました。主イエスに声をかけられ、主イエスの弟子とされたことを喜んだからです。主イエスに目を留められ、声をかけていただいた。そして、主イエスの招きによって召し集められるのは私たちも同じです。私たちも、主イエスに目を留められ主に声をかけられ、主に従った弟子たちです。神の恵みを受けることができるのが教会であり礼拝です。
 聖霊の働きによって世界に教会が建てられて、多くの人たちが、主イエスの招きによって礼拝に招かれています。かつて、レビが主イエスに目を留められ声をかけられ、従った。その結果、多くの人たちがレビの家で食事をした。あの光景は、キリスト教会において実現しています。神様からみな同じ恵みを受けて歩んでいます。
 イエス・キリストによって与えられた恵みは約二千年間、教会においてなされ、現在はキリスト関係施設、幼稚園、学校においても神様のご栄光が現わされ、それぞれが神様に用いられています。
 私たちは、主イエス・キリストを通してみ言葉を与えられ、主イエスによって罪の赦し、永遠の命を与えられました。その恵みに全生活を持って神様に答えていくのです。
 私たちは、どこかで「私は神様に選ばれる資格は無い」と思うところがあります。しかし、神は私たちを罪から贖い、救い出してくださいました。そして、主イエスが中心におられる礼拝においてのみ世では与えられない喜びを神は私たちに与えてくださいました。だから、私たちは、罪赦され、永遠の命に与った者として昔も今もこれからも主が再び私たちの所に来てくださるその時まで主に仕え、従い歩んでいくのです。
 み言葉はいつでも私たちに語りかけます。その招きに私たちは喜んで従い歩む幸いをこの箇所から改めて知ることができます。

文:川添義和副牧師