御心に従わせてください
2021年03月
このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
マタイによる福音書 16章21節〜22節
受難節に入りました。冒頭聖句は、主イエスが話された最初の受難予告です。それを聞いたペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めたのです。この「いさめ」と訳されている言葉は、別の箇所で主イエスが「ペトロを叱って言われた」時の「叱る」と同じ言葉です。なんとペトロが師である主イエスを叱ったのです。彼はこの後、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(22節)と告げるのですが、その真意はこうです。「あなたはメシア(救い主)ではありませんか。エルサレムに向かうのは、イスラエルの王となるため、ローマと戦うため、人々を集め指導するためではありませんか。苦しみを受けて殺されるとか、そんなことを言ってはなりません。」きっと、彼にとってそれは善意であったでしょう。しかし、そのペトロに対して主イエスは、「サタン、引き下がれ」と叱りつけたのです。
実はサタンとは、私たちがイメージしやすい、一見して悪と分かる存在ではありません。サタンの一番の目的は、主イエスを十字架に架けないこと、神の救いの御業を邪魔することです。主イエスはこのペトロの言葉と行動に、サタンが働いていることを見抜かれたのです。だからペトロに「あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(23節)と言われたのです。
さて、主イエスはペトロに対し、「サタン、引き下がれ」と言われましたが、それは「もうお前など要らないから出て行け」と言われたわけではありません。この「引き下がれ」を直訳すると「わたしの後ろに行け」となります。つまり、主イエスは十字架に架けられるためにエルサレムに向かわれる。その行く手を阻むな。わたしの前に立つな。わたしの後ろからついて来なさいということなのです。
私たちがサタンの誘惑を回避する気づきとなるのは、自分の願いや思いを絶対視しないということです。それは自分の願いや見通しが、常に神様の御心と一つになっているという思い違いをしてはいけないということでもあります。
神様は私たちの思いや願い通りに事を運んでくださるわけではありません。確かに神様は私たちを愛してくださり、私たちにとって一番よいようにしてくださいます。しかし、その神様が一番良いと思われることが、私たちの思いや願いと一致するとは限らないのです。実際、私たちは自分のことも家族のことでも、本当に一番よいのは何かが分かっていません。にもかかわらず、こうなるのが一番よいと勝手に思い込んでしまうところがあります。本当は神様が願われ、なされること、それが一番よいことのはずです。そして神様はその御心に従うことができるよう、いつも私たちを導いてくださるお方であることを信じてよいのです。
数年前、『信徒の友』に掲載された、女性牧師の証しを紹介します。K牧師は少学生の時に牧師である父親を亡くし、そこから母親が牧師になります。四歳上の兄も牧師となり、米国に留学するのですが、半年後に突然死します。神学校を卒業したK牧師は母親と共にO伝道所を牧会しますが、その後、母親が認知症となり、十年に及ぶ在宅介護をしながら教会を守ります。その間、牧師館が近所から出火した火事で焼失してしまうのです。
こう話しますと、何と不幸な人という印象を受けられるでしょう。確かに一つ一つの出来事は大変重く、彼女の心を塞がせるのに十分なものでした。事実、そのような時期もありました。しかし今もそのすべてを神様のなされたことと受け止め、牧会・伝道に励んでおられるのです。K牧師は「折々に与えられた聖書の言葉がどれほど自分を励ましてきたか」と言われましたが、特に「神様の御心なら事は成るし、成らないのは御心でないのだから、それはそれでよいのです」と言われたことが深く心に残っています。
文:真壁 巌 牧師