たわ言のように思われた復活
2021年04月
それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。
ルカによる福音書 24章10節〜11節
20年前、「知ってるつもり」(司会は関口 宏さん)という毎回偉人を紹介するテレビ番組がありました。12年半も続いた長寿番組の最終回はイエス・キリストでした。
よくできた構成でしたが、クリスチャンでなく、また特定の信仰をもっていない方々に伝えるのにはやはりこうしかないのかという、私には多少違和感ある内容でした。
私たちは聖書を読むこと、主イエスの言葉を心に刻むことを大切にします。それは今生きておられる主イエスの声として聞くのです。つまり、ある人の思想とは違うのです。人は死んでも、その書物によって思想を残すことが出来ます。今まで、人類にはそのような偉大な思想家たちがたくさんいました。信仰者は主イエスをそんな偉大な思想家の一人にしてはなりません。それらの思想家は決して墓の中から出て来ることはないからです。主イエスは復活されたのです。生ける神として、私たちと出会い、私たちを導いておられるのです。
天使たちは告げます。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」(同24:6~7)と。彼女たちは確かに主イエスから聞いていました。けれども忘れていたのです。そのような彼女たちに天使は「思い出しなさい」と告げ、そのとき婦人たちは「思い出した」のです。
これがイースターの朝の出来事でした。そして私たちもそうです。思い出すのです。何度も思い出すのです。主イエスが私たちに与えてくださった約束、主イエスがなしてくださった御業を。そして私たちが生ける主イエスと出会った、あの日、あの出来事を。神に背を向けて生きていた私たちが、神を愛し、神と共に生きる者とされた、あの日を私たちは何度でも思い起こすのです。
冒頭聖句に「使徒たちは、この話がたわ言(口語訳:愚かな話、聖書協会共同訳:まるで馬鹿げたこと)のように思われたので、婦人たちを信じなかった」とありました。教会を建ち上げるために生涯をかけた使徒たちでさえ、イースターの朝に主イエスの復活の知らせを聞いても信じませんでした。この信じられなかった者たちが信じる者とされた。ここに神さまの救いの御業があります。信じない者を、信じる者に変えることは誰にも出来ません。親も子も夫婦でもそれは出来ません。しかし神には出来ます。いや、神さまだけが出来るのです。
なぜ使徒たちが信じなかったということが聖書にわざわざ記されているのでしょう。事実そうだったということなのかもしれません。しかし、この福音書が書かれた時、使徒たちはすでに初代教会の中で中心となっていた人たちでした。普通、そういう人たちの恥となるような過去は隠すはずです。でも聖書はそれを記しました。それは使徒たち自身が、信じない者であったことを隠そうとしなかったからです。確かに信じられなかった者が、今は信じる者とされている。彼らは自分のありのままを何度も語り、復活を繰り返し告げることによって主の復活の証人とされたのです。彼らは何度も思い起こし、何度も語ったに違いありません。
そう、あの一番弟子を自負していたペトロさえ、「三度(何度も)主を知らいない」と言ってしまった恥ずかしい経験を何度も何度も繰り返して語ったのです。なぜか。教会はいつの時代も自分たちではなく、今も生きて働いておられる復活の主を伝えてきたからです。
私たちも伝えてゆきましょう。神さまが私にしてくださった救いの御業を。私たちは立派な人でもなければ、信仰深い者でもなかったはずです。そのような私たちを神さまは憐れんでくださり、神の民、ご自分の子としてくださり、復活の命に生きる者としてくださいました。本当に感謝なことです。この救いに与る者とされている恵みを大いに喜び、臆せず主の復活を大胆に宣べ伝えてゆきましょう。
文:真壁 巌 牧師