日本キリスト教団

西千葉教会

もう泣かなくともよい

2021年05月

 イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。 そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。 すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。

ルカによる福音書 7章12節〜15節

主イエスは、たまたまこの息子の葬列に出くわしたのです。人の死は、その家族にとってはどんなに特別なことであっても、社会的にみるなら日常的なことでもあります。私たちも霊柩車や救急車を日常的に見ています。そこにはある家族にとって大きな危機であることが脳裏をかすめることもありますが、あまりにもありふれた光景になってしまい、無感動に見送ってしまうのが普通となってはいないでしょうか。
しかし主イエスは人の悲しみに無感動のお方ではありませんでした。この葬列の中、大声で泣き叫んでいる母親をご覧になり、憐れに思ったというのです。
「憐れに思った」という言葉、原語では「はらわたが引きちぎられるような痛み」という意味があります。気の毒に思ったという程度の言葉ではなくて、この母親の悲しみを全身で受け止められ、激しい感情が湧き上がり、主イエス自身がそれに耐えられないような激しい苦痛にも似た憐れみの情に襲われたということでしょう。
人はよく「平常心が大切」と言います。身の回りに起こった出来事でいちいち悲しんでいたり、怒ったり、憂いたり、反応していては感情に振り回される結果を招くからです。そこで平常心を保つためにはどうしたらよいかと考えて、心にバリアを張るのです。たとえば人から何を言われても、物が言っていると思えばあまり腹も立ちません。初めから人を信じていなければ、人に裏切られた時も悲しみは小さくて済みます。固執しない、執着しない、感情移入しない、人を信じない、そういう心のバリアを張っていれば、どんなことにも影響されない強い人間になれるだろうと考え、安心しようとするのです。
しかし主イエスはそんなこと一切お構いなしに心のバリアを取り払われ、私たちの悩み、悲しみ、不安、恐れ、怒り、恨み、不平不満を全身で受け止めてくださいました。そして私たちの痛みをご自分の痛みとしてくださり、深く憐れまれるお方なのです。
主イエスは母親に「もう泣かなくともよい」と言われました。そして棺に近寄られ、手を触れ、中にいる死んだ息子に向かって「若者よ、起きなさい」と呼びかけられると、死人は起き上がってものを言い始めたというのです。
これは想像ですが、この葬列は門の中から外に向かって出てきたはずです。そして主イエスの一行は門から町の中に入ろうとしています。この二つの流れは正反対で、真正面から出会ったのではないかと思うのです。つまり、主イエスがここで棺に手を触れたのは、正面からその棺の前に主イエスが立ちはだかり、その棺が前に進むのを阻まれたということでしょう。それは死の行進、墓という陰府へと進む行進を、主イエスがその前に立ちはだかって止めたということです。誰も引き返せない、誰も止めることの出来ない死の行進を、主イエスが止められた。全ての者が死の力の前で、ただ泣き、嘆くしかない圧倒的な力をはらいのけ、打ち破ろうとされた瞬間でした。 
ここで「起きる」と繰り返されている言葉は、復活を語る時に用いられる言葉です。息子は復活しました。主イエスが復活させられたのです。この時、母親を押しつぶしていた死の力は、主イエスによって打ち破られたのです。
そしてこの出来事は、ただ死人の復活を強調する奇跡物語ではありません。なぜなら復活したこの息子もヤイロの娘もラザロも皆、その後死ぬからです。そして私たちもいつか死にます。それは厳然たる事実です。しかしその死の支配する現実の中で、主イエスの「もう泣かなくともよい」という御言葉が響くのです。絶望(死さえも)がどんなに深くとも「それで終わらない」と宣言される復活の主が共にいてくださる。だから、もう泣かなくともよいのです。

文:真壁 巌 牧師