本心に立ち帰って
2021年07月
彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
ルカによる福音書 15章16節〜18節
有名なマザー・テレサはある時、こんなメッセージを語りました。
「世界にはまだ最悪の病が残っています。それは天然痘でもなければ癌でもありません。インドに蔓延しているハンセン病でも結核でもありません。それは自分が生きていてもいなくても同じだと考える精神的な孤独、精神的貧困と呼ばれる病です。」
主イエスの譬え話の中で、父親からもらった財産を放蕩の限りを尽くして無駄遣いしてしまった息子は飢饉に遭い、しかも「食べ物をくれる人はだれもいなかった」という悲運を味わいます。自業自得ですが、ひもじいだけではなく、誰も自分を助けてくれない、愛してくれない、必要としてくれないという精神的な孤独、精神的貧困、精神的飢饉が、彼を絶望へと追いつめてゆきます。
しかし人間は絶望のどん底で、自分がいかに弱く、無力で、知恵のない、惨めな人間であるかということを身に沁みて知るのです。しかも、それは何かを失ったから急にそうなったのではなく、はじめからそういう存在だったのだけど、今まではうまく誤魔化してきたに過ぎないのだということが分かる時でもあります。
マザー・テレサもノーベル平和賞を受賞した後、通常行われるパーティーの中止を申し出ました。そして、その費用をもらって二千人もの人々にクリスマス・ディナーを提供したのです。本当に素晴らしい行いです。しかしそれにも関わらず、彼女は自分の胸に手を当てて考えてみると、私が愛していたのは他人ではなく自分自身ではないか、人に与えると思っていたけれど自分が受けていたのではないか、貧しい人の友となろうとしていたけれど思い上がりにふくれあがっていたのではないかと、誤魔化しから自分を解放してくださいと、こう祈っているのです。
「主よ、私は信じ切っていました。
私の心には愛がみなぎっていると。
でも心に手を当ててみて、本音に気づかされました。
私が愛していたのは他人ではなく、他人の中の自分を愛していた事実に。
主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は思い込んでいました。私は与えるべきことは何でも与えていたと。でも胸に手を当てて真実がわかりました。
私の方こそ与えられていたのだと。
主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は信じ切っていました。自分が貧しい者であることを。
でも胸に手を当てて本音に気づかされました。
実は思い上がりと妬みの心に私がふくれあがっていたことを。
主よ、私が自分自身から解放されますように。」
絶望することも大事だというのは、誤魔化しが利かなくなることによって、はじめて誤魔化しのない自分の姿を見つめ、誤魔化しのない生き方への道が開けてくるからです。そういう意味では、絶望は希望への入り口でもあります。
冒頭聖句の「彼は我に返って」という表現はとても大切です。以前の口語訳とフランシスコ会訳聖書では「本心に立ちかえって」となっていました。偽りの人生を生きてきたことに気づき、本当の自分に立ち帰るということです。それは自分が逃げるように飛び出してきたわが家に帰ることでしょう。放蕩息子が家に帰った時、そこには自分のすべての過ちを赦し、走り寄って首を抱きしめ、接吻し、最上の着物や履物を与えた上に、祝宴まで開いてくれる優しさと愛に満ちたお父さん(父なる神)がいたのです。
私たちも絶望を通して自分が本当にいるべき場所に立ち帰れる希望が見えてきます。そして忘れてならないことは、私たちを待ち続ける神さまにとっても私たちの立ち帰りこそが最上の喜びなのです。
文:真壁 巌 牧師