日本キリスト教団

西千葉教会

真実を語るとは?

2021年08月

 だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。

エフェソの信徒への手紙 4章25節

 「だから」とパウロは勧めます。「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」と。もう少し具体的には、「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」(29節)。更に、「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(31―32節)。
 そして、これらの戒めの根本にあるのが、「わたしたちは、互いに体の一部なのです」(25節後半)という認識なのです。私たちは皆、それぞれ独立した人格ですが、同時にキリストによって「一つの体」の一部として、互いに結びつけられているのです。だから「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(Ⅰコリント12:26)とある通りです。隣人を生かすことは自分を生かすことであり、また隣人を辱めることは自分を辱めることにつながります。それゆえパウロは「それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」(冒頭聖句)と命じているのです。
 しかし、それでは「真実を語る」とはどういうことなのでしょう?
 『夜と霧』の著者で、心理学者・精神医学者でもあるヴィクトール・フランクル(1905―97年)はウィーン生まれのユダヤ人でした。精神分析学の創始者フロイトのもとで学び、優れた精神医学者として早くから注目され、愛する妻と二人の子どもに恵まれて平和な生活を送っていました。
 ところが、その平和もナチスの侵攻により、ただ「ユダヤ人である」というだけの理由で、彼の一家は逮捕され、アウシュヴィッツへと送られてしまいます。そこで彼の両親と妻、子どもたちはガス室と飢餓室で殺されたのです。そうした状況下で、密かに書いた原稿(夜と霧)とフランクルだけが生き延びることができたのです。
 1984年にフランクルはユダヤ教学者ピンハス・ラピーデ(同様にホロコーストの生き残り)と対談をしますが、彼はこの対談の中で興味深いことを語っています。「強制収容所の苛酷な生活の中で、言葉は別の意味を持っていた。例えば、囚人たちは生き抜くために僅かばかりの石炭やジャガイモなどを盗むことがあった。この行動は、囚人同士の間では『調達する』と言い表され、うまく手に入れた時は自慢したり、互いに祝福したりした。『盗んではならない』という十戒の第八戒は、あの情況では全く別の意味を持っていた」。
 もう一つのエピソードとして、彼は強制収容所送りになる前、ウィーンでユダヤ人のための老人ホームを経営していました。その頃、ナチスの「安楽死作戦」が始まり、ユダヤ人の精神病患者は容赦なく殺されてゆきます。彼の老人ホームは通常、精神病者は受け入れなかったのですが、その後、彼は統合失調症の患者には「脳出血が原因の言語障害」という診断を、鬱病の人には「熱による譫妄(せんもう)」という診断を下して、かなりの数のユダヤ人を受け入れ、救ったのです。これも厳密に言えば、「隣人に関して偽証してはならない」という第九戒への違反ですが、あの場合は間違っていなかったと断言します。
 最後のエピソードは更に痛ましいものでした。アウシュヴィッツで新婚の妻と離れ離れになる時、彼は妻に向かってこう言うのです。「どんなことがあっても生き延びるんだ。わかるか。どんな犠牲を払ってもだ」。彼が言いたかったのは、ゲシュタポの将校たちに体を求められたら、「姦淫してはならない」という第七戒に背いてでも生き残りなさいということでした。そう自戒を込めて告白しています。
『人生の意味と神』(新教出版社)

 「真実を語る」とは、その状況に応じて、何を語れば相手の命を守ることになるか、相手を真に愛することになるか、という自覚なしには成り立たないのでしょう。

文:真壁 巌 牧師