日本キリスト教団

西千葉教会

真の自立

2021年09月

 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、

使徒言行録 3章4節〜7節

 ペトロとヨハネが午後三時の祈りの時に神殿に上って行くと、「美しい門」の傍に一人の男が運ばれて来ました。この男は「40歳を過ぎていた」(4:22)とあるので、普通であれば働き盛りです。しかし「生まれながら足の不自由な」(3:2)人であったため、人に頼んで毎日門の傍に置いてもらっていました。それは「神殿の境内に入る人に施しを乞うため」(同)でした。「午後三時」は敬虔なユダヤ教徒たちが大勢この門を通って境内に入って行く時間帯で、彼らにとって「施し」は信徒の大切な義務とされていたこともあり、そこに座っていれば、かなりの施しが期待できたわけです。これが以前の私の解釈でした。つまり、この男は足が不自由であったため、生きるには物乞いをするしか手段がなかったと考えたのです。 
 しかし、足が不自由だから物乞いするしかないと考えるのは短絡的です。人には豊かな可能性が備えられ、体の一部に障がいがあっても、他の部分がそれを補います。足が動かなくても、他を働かせて移動や仕事をすることは出来るのです。私たちの周りには星野富弘さんのように障がいがあっても驚くべき能力を発揮し、自立的な生き方をしている人々が大勢います。
 ペトロたちが出会ったこの男は、物乞いを習慣にしていたようです。おそらく「他者の善意に依存する」方法で楽にお金を手にすることを覚えたからでしょう。もちろん、他者の善意を受けることは恥ずべきことではありません。他者を助けることができるならばそれは感謝なことですが、時には他者の援助を遠慮なく受けて良いのです。でもそこには危険もあります。自分たちの役割はもっぱら可哀そうな他者を助けることにあると考え、自分たちは「与える側」、可哀そうな彼らは「受ける側」という考えが体に染み付き、いつの間にか傲慢になってしまうという危険です。
 私たちは誰もが助けたり、逆に助けられたりして生きています。それは「人が独りでいるのは良くない」(創世記2:18)と言われた神様の御心です。だから、助ける時は喜んで惜しみなく助け、助けられる時は卑屈にならずに堂々と援助を受けて良いのです。その時大切なのは、自分をどちらかの側に固定して考えないことです。
 ペトロとヨハネはこの男を「じっと見た」のです。もっぱら他者の善意に依存するだけ、自分の人生をそこに固定して考えるようになってしまった男を、使徒たちは問いかけるようにじっと見て言います、「わたしたちを見なさい」と。男は相変わらず他者依存的に「何かもらえると思って二人を見つめ」ますが、この時ペトロが発した言葉に私たちは驚かされます。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。」これがつい数日前、主イエスを三度も裏切ってしまったことを悔やんで泣いたあのペトロの言葉でしょうか。 とてもそうは思えないほど自信に溢れています。それはどこから来るのでしょう?ペトロはあの挫折の後、主イエスが彼の内に甦られたことを経験したのです。今も主イエスが私の中に生きていてくださる、その私を見なさい。そしてあなたも「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と。
 この時から男は他者依存的な生き方を止めました。「足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」(3:8)。真の自立は自分の足だけで立つことではありません。立たせていただいた自分を知って生きることです。「自立=自活ではない。自立とは依存すべき時に依存できて、それに対する感謝の気持ちを持つことです」(河合隼雄)。
 主イエスは今も、そしていつまでも私たちの手を取って、真に自立させてくださるお方です。

文:真壁 巌 牧師