日本キリスト教団

西千葉教会

見よ、新しいことをわたしは 行う。今や、それは芽生えている

2022年01月

 見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。

イザヤ書 43章19節a

 2022年の年間主題聖句としてイザヤ書から表題の聖句が示されました。2021年の主題聖句「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(ローマ12:12)は新型コロナウイルスの影響下にあって示された聖句でしたが、今年もおそらくその影響を無視できない歩みを継続することになるでしょう。そんな思いの中で与えられた御言葉です。
 この御言葉は第二イザヤと呼ばれる預言者によって語られました。彼が生きた時代はバビロン捕囚(紀元前六世紀)末期で、イスラエルの民にとってはすでに祖国を追われてから半世紀以上が経過し、将来に対する希望を失っている時でもありました。そんな彼らの過去を懐かしむつぶやきが次の聖書個所によく表されています。
 「海の中に道を通し、恐るべき道の中に通路を開かれた方、戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し、彼らを倒して再び立つことを許さず、灯心のように消えさらせた方」(43:16—17)。
 これは間違いなく出エジプトの出来事です。イスラエルの民にとってこの歴史は救いの原点でもありました。ですから当然、その救いの恵みを思い起こすことは良いことであると私たちは考えますし、ユダヤ教では毎年「過越しの祭」によってこの出来事を繰り返し想起してきたことも確かなことです。
 ところが第二イザヤはそのような民に対して警鐘を鳴らします。「初めからのことを思い出すな。
昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか」(同:18—19)と。
 なぜ過去を思い起こしてはいけないのでしょう。それはイスラエルの民の前掲(16—17)の言葉が神への信頼ではなく、絶望ゆえに先へ進もうとしないつぶやきであったからです。つまり「昔は良かった」と言って今を嘆く民に対して、この預言者は「昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことを行う(将来を切り開く)神に心を向けよ」と促しているのです。
 これは他人事ではありません。私たちもよく昔を懐かしみます。特に今のコロナ下にあって、それが顕著になっているのを感じます。教会でコロナ前にできていたこと、その楽しかった情景を思い起こし、「以前の教会は楽しかったのに」とつぶやいてしまう自分がいます。ある牧師が「礼拝の讃美歌さえ、神をほめたたえることよりも、昔歌った懐かしい思い出の曲を歌いたいと願います」と言われたことにハッとさせられました。
 では第二イザヤが告げる「新しいこと」とは何でしょう。それは新しい出エジプトです。つまり単に過去の出来事を否定しているのではなく、イスラエルの民がただの思い出にしてしまった恵みの出来事を神は将来において実現してくださる、むしろそれ以上のことを神はなさろうとしておられるというのです。一九節後半を見ると、「わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ、わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ」とあります。今度は紅海ではなく、バビロンと祖国を遠く隔てている荒れ野・砂漠に道を敷き、川を流れさせるのです。これは祖国への帰還を意味しています。「山犬」は荒れ地に住む野獣であり、「駝鳥」は自分の産んだ卵さえ捨てる無慈悲な鳥とされていました。そんな「汚れた動物」でさえ、神をあがめるように変えられるというのです。これこそ神が描かれる「新しいこと」であり、世界(自然界)の再創造とも言えます。その上で神は言われます。「わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない」(同:21)と。
 決して過去を振り返って嘆くためではなく、主を賛美するために私たちは創造されたのです。再び新しいことを行ってくださる主をほめたたえながら歩みましょう。

「だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。」
(Ⅱコリント5:17 聖書協会共同訳)

文:真壁 巌 牧師