幸いを受けている
2022年02月
「幸せになりたい」と誰もが願っています。「幸福」を国語辞典で調べますと、その人にとって望ましく、ありがたいこと、幸せ、運の良い、都合が良いと書かれています。キリスト者にとっての幸いは神様に捉えられ神の民とされ神様が私たちの罪を赦し、その罪を覆い隠してくださったことです。神様によって罪が覆い隠されているということは、その人に罪はありますが、神様から不法を赦されているということです。「不法」は神様に従わない者たちという意味です。キリスト者は自分が罪深いことを神の恵みから知らされています。だから幸いなのです。私たちはすでに神様から「幸いな者たちよ」と言われていることに気づかされます。私たちは、人生において悩みます。苦しい経験を何度もしています。先ほど、幸いについて話をしましたが、自分自身の幸いを中心に考えます。
もちろん、人生の目標を持って歩んでいくことは大切です。また私たちは、どこかで多少のことは仕方ないという思いがあります。人は自分の自己実現を追い続け、それを得たとしても他の自己実現を目指すこともあります。それぐらい、人の思いは強く、またはかないものであると思わされます。そういう私たちが神様に捉えられ、信仰によって義とされ罪赦されました。ローマの信徒への手紙からみ言葉を聞き、人間の罪を見つつ、同時にその罪がキリストに赦されている。だから、私たちは、自分の思いはあるけれども、その思いを超えた所に神様の働き、神様に捉えられた故の幸いが与えられていることをみ言葉から知らされます。私たちは主に立ち返らされ、神様に生かされています。神が私たちを養い、守り、不法が赦されて歩む者とされている。そこに立ち返らされ、日々新たにされること、このことが私たちにとって幸いなのです。
「アブラハムの信仰が義と認められた」。パウロが伝えたいのは、キリストにおいて義とされる、その恵みを伝えたいのです。アブラハムが主の言葉を信じて、従いました。それ故、義とされました。「義」とは正しいという意味ですが私たちの信仰生活は、神様があそこに行ってこれをせよと召され、その導きに従うとき、その歩みは神様のご計画された歩みであり、それ故、義。正しい者と神様が認めてくださるということです。
パウロが歩んでいた時代の教会にはユダヤ人がいました。ユダヤ人たちは割礼を重視し神から選ばれた民としての誇りがありました。しかし、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストを通して神から与えられる義、救いが必要だったことをパウロは伝えました。私たちは、まず自分を見てその後、隣人たちを見ます。キリスト者にとっての共通点は割礼ではなく、洗礼を受けたということです。洗礼を受け、イエス様に従っていく。かつて主イエスがユダヤにて語られた福音が、十字架と復活において、昔も今も世界各地にて宣べ伝えられている。この福音に生かされて神様に慰められ、励まされ、時には戒められて歩みたいと思わされるのは神の恵みが先だってあるからです。私たちは、神様、隣人に認められたいという欲求があります。祈祷会では民数記からみ言葉を聞いていますが、モーセの姉、ミリアムと兄のアロンがモーセに対して不平を言います。なぜ、主はモーセを通してのみ語られるのか。二人はモーセに嫉妬しました。私たちこそ、モーセの立場になるべきだと。私たちも「なぜ、あの人が」と思うこともあります。しかし、どうでしょうか。人は「なぜ」と言います。しかし神は、主イエスを信じる民の罪を赦し、私たちがイエス・キリストを礼拝する者としてくださった。教会にて洗礼を受けた人たちは、もれなく、キリストを礼拝する恵みを与えられています。その恵みを忘れる時、本当の幸いを忘れてしまいます。でも神様は、私たちを立ち返らせてくださる。神様との関係が主イエスによって与えられていることが、教会、私たち一人一人にとっての幸いであることに気づかされます。神様の恵みの中で主と共に歩みキリストを礼拝し、主に立ち返らされる幸いを神は、私たちに与えてくださいました。だから、私たちは幸いなのです。
文:川添義和副牧師