陰府からの使者
2022年04月
そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
ルカによる福音書 16章23節
聖書には思ったほど死後の世界について詳細なことが描かれているわけではありません。地獄についても、天国についてもそうです。その上で聖書は、どんな人間も死んでから一度「陰府(よみ)」の世界に行くことを告げます。そしてその陰府も決して一様ではなく、ラザロが行った慰めの場所(宴席でのアブラハムの膝の上)と、金持ちが行った炎の中で苦しむ場所とがあったようなのです。主イエスも死んで葬られ、陰府にくだりました(だからよみがえり!)。
この金持ちはアブラハムに苦しみからの解放とセカンドチャンスを求めました。しかしアブラハムはそれを拒絶します。「そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない」(同26節)とも言っています。すると、「ではお願いです。地上にいる五人の兄弟たちが自分と同じ目に遭わないで済むよう、ラザロを遣わしてください」(27、28節)と頼みます。しかし、アブラハムは彼等にはモーセ(律法)と預言者(預言書)、すなわち聖書があるから、わざわざ陰府からラザロを遣わす必要はないと断わるのです。
なお金持ちは諦めず、陰府からの使者があれば必ず兄弟たちも悔い改めるはずだとアブラハムに頼みますが、聖書を読んでも悔い改めない者は、死者が陰府帰っても悔い改めはしないと断言するのです。
ただ私はこの譬えに少し違和感を覚えます。なぜ陰府にいるのが神ではなく、主イエスでもなく、アブラハムなのかということです。主イエスの譬えには父親、主人、王、あるいは羊飼いといった明らかに父なる神や主イエスのことを指し示していると思われる登場人物が出てくるのです。けれども、この譬えにはアブラハムはいますが、神や主イエスがいないのです。それはどうしてでしょうか。
アブラハムとは、神から救いの約束を受け取った最初の人間で、それを信じて生涯を歩んだゆえに神の友、信仰の父と言われるようになった人物です。このアブラハムへの約束は彼だけに留まるものではなく、彼の子々孫々に及ぶものでありました。それゆえ、アブラハムの子孫であるユダヤ人は、自分たちこそ救われる民であるという選民意識をもっていたのです。
しかし「金持ちとラザロ」の譬えは、そのようなユダヤ人の選民思想をうち砕きました。つまり同じアブラハムの子孫であっても、ラザロは慰めの場所に行き、金持ちは苦しみの場所に行きました。しかもその間にはアブラハムですらどうすることもできない大きな淵が横たわっているというのです。
アブラハムは確かに神の友、信仰の父、イスラエル民族の父祖でしたが、決して救い主(メシア)ではないのです。主イエスは、あえてここに父なる神やご自分でもなく、アブラハムを登場させることによって、まことの救いはアブラハムによってではなく、「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼられた」主イエスご自身によって与えられることを示されたのです。
私たちは聖書を通してこの恵みの事実を知らされている者です。もし主イエスがいなければ、セカンドチャンスもなかったでしょう。
「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちはノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です」(Ⅰペトロ3:19―20)とある通りです。
死で終わらない希望があるのです。
譬え話に「ラザロ」という固有名詞が出てくるのはここだけです。主イエスが「ある金持ち」と並べて「ラザロ(神は助ける)」を登場させた理由は、全ての人が神の助けによって生かされている事実を伝えたかったからに他なりません。ここにも大きな希望があります。
文:真壁 巌 牧師