主の徹夜の祈りに支えられて
2022年05月
そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。 朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。
ルカによる福音書 6章12節〜13節
弟子として立てられた12人がどうして主イエスによって選ばれたのか、その理由は判りません。私たちの目から見れば、別にこの人でなくてもよいのではないかとさえ思います。12人は元漁師であったり、罪人とみなされた徴税人であったりと、人々を指導して行くのにふさわしいとは思えない人々でした。特にこの中には、後に主イエスを裏切ることになるユダも含まれていました。ユダだけではありません。主イエスが捕らえられた時、他の弟子たちも皆、逃げてしまいました。12人の筆頭にあげられているペトロも「イエスなど知らない」と三度も口にしたのです。主イエスは彼らを選ぶ時、どうしてそれを予測できなかったのでしょうか。
注目すべきは冒頭に掲げた聖句です。主イエスは12弟子を選ばれる時、徹夜の祈りをされました。何を祈られたのでしょう。これは想像ですが、主イエスはこの時、「自分を裏切り、見捨てる者たちを入れて良いか。」そう父なる神に祈り、尋ねられたに違いありません。その上で、主イエスは彼らの弱さを知り、全てを知っていました。知っていたからこそ、徹夜の祈りをされたのです。「父なる神よ、この者たちの弟子としての歩みを守り、支え、導きたまえ」と祈られ、その後に12人をそばに置く弟子として選ばれたのです。
私たちも主イエスの祈りの中で選ばれている者たちではないか思います。私たちの信仰の歩みは、まことにたどたどしいものです。にもかかわらず、何とかその歩みを続けながら生かされています。それは主イエスの祈りによって支えられているからに他なりません。
あるいは私たちのために祈ってくれている人がいます。その祈りに、神さまが応えてくださって、私たちのたどたどしい信仰の歩みが守られ、支えられているのです。
私は牧師になって35年になりますが、献身することを恩師である牧師に伝えた時、隣にいた夫人が、「私たちは長い間この日を待ち望んで祈っていました」と言われたのです。献身の決断は、自分一人のことだと思っていた私でしたが、この時気づかされたのです。献身という出来事の背後に、長く祈ってくださっている人々が確かにいたということを。
多くの場合、子どもは親が自分のためにどれほど祈っているかということを知りません。しかし大人となった今は自分が祈られてきた存在であり、祈られているがゆえに、今日あるを得ていることを忘れてはならないでしょう。更にはその恵みを知らされた自分もまた隣人のため、世のために祈る者とされたいと心から願います。
新約聖書で主イエスは二度、大切な時に徹夜をしておられます。一度目は12弟子を選ばれたこの時です。そしてもう一回は、ゲツセマネの祈りから十字架にかかるまでの一日です(ルカ22:44)。聖書の神は徹夜の神(左近 淑)です。まさに「主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない」(詩編121:3‐4)のです。神さまが徹夜をし、血の汗をぽたぽたと流され、たった一人の闘いをして、この世の救いを貫徹されたのです。だからこの世界の現状がどんなに救いからほど遠く、どんなに辛くて苦しくても生きてゆけます。その理由は今もなお、神ご自身である主イエスの徹夜の祈りに支えられているからです。
主イエスを三度も知らないと言ったペトロはその後、復活の主と出会い、再び弟子とされました。きっと彼は、自分がこうして使徒として再び立つことができたのは主イエスの祈りによってであると思い知らされたことでしょう。 それは他の弟子たち、また私たちにとっても同じです。
文:真壁 巌 牧師