神と顔を合わせる
2022年6月
主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
創世記 4章6節〜7節
神がその御顔を向けてくださる、という行為には特別な意味があります。それは、神の祝福と、神の怒りを示すというものものです。
この時のカインの激しい怒りが何に対する怒りであったかは具体的には書かれていませんが、ここで主はカインの胸の内にある思いを、正しくないと言っておられます。また主は、単純に顔を伏せたこと自体を指摘されたのではなく、ご自分へと向いていた顔が、下がってしまったことを咎めているのではないでしょうか。さらにここで考えたいのは、この箇所で語られているのは、私たちが顔を伏せる数々の理由の先にこそ、罪が待ち受けている、ということです。この罪が、私たちと神様との関係において大きな妨げとなり、時には取り返しのつかない仕方で、私たちを引き離そうとしてきます。カインもそのことを嘆いています。
ここで私たちは一つの事実を教えられています。それは、神から目を留めてもらうこと、それ自体が、最も重要なことではないということです。それよりももっと大切なことが前提としてあるからです。それは、神と顔を合わせられる場所に、身を置くことが赦されているということです。神との交わりに招かれ、それに与ること。これ以上に私たちの人生における喜びはありません。捧げ物に神が目を留めてくださらないことが悲惨なのではなく、神と顔を合わせられないことが本当の悲惨なのです
カインは、単なる追放という仕方で神の御前から立ち去ったのではなく、主によってしるしを付けられました。それは、御顔が見えないところにあっても、神が積極的にカインと関わろうとして、付けられたしるしではないでしょうか。カインは自分から神の顔を仰ぎ見ることができないとしても、自身に付けられたそのしるしを手がかりに、神を思い起こすことができたのです。このカインとアベルの物語の中に、私たちと罪の関係、そして、私たちと神との関係が語られています。しかし、私たちはカインのように、何かしるしをつけられているわけではありません。そればかりか、私たちはカインよりも、はるかに憐みに富んだ仕方で、しるしを与えられています。そのしるしこそが、御子イエス・キリストです。罪深い私たちに今もなお、主は憐れみ、惜しみなく、愛を注いてくださっているのです。
主が「御顔を向ける」、民数記に記されているこのフレーズの中で、「向ける」と訳されている言葉は、元は顔を「上げる」という意味で使われる言葉です。この「上げる」という言葉は、カインが顔を伏せるという言葉とは逆の意味が、示されているのではないでしょうか。顔を下げるというのは、怒りや悲しみを表わしていました。その逆である「顔を上げる」というのは、その怒りや悲しみを超えるということが、表されているのだと思うのです。神は、どれほど大きな怒りや悲しみがあろうとも、ご自分の民に祝福を賜ってくださいます。私たちの罪深さにもかかわらず、神は赦しと憐れみをもって、その御顔を上げ、私たちに向けて下さるのです。ここに、神の真実な愛を見ることができます。カインは捧げ物を持って来た時、おそらく神と顔を合わせていたことでしょう。それは、カインに御顔を向けていた、ということになります。カインはこの時確かに、御顔に照らされ、神の祝福に与っていたのです。私たちにはいつも愛と祝福を注いでくださる方が共にいてくださることを知っています。ですから、誰がいつ自分に目を留めてくれるようになるのか、私たちはそこに喜びや平安を求めなくとも良いのです。私たちは教会で捧げる礼拝を通して、御顔を拝することができ、ここに真実な喜びと平安があることを確かにするのです。私たちの地上での歩みが、順調な時も、逆境にあっても、絶えず注がれている祝福を確かにすることができますように、共に主の御顔を尋ね求めていきたいと願います。
文:菊地信行伝道師