教会の始まり
2022年07月
突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
使徒言行録 2章2節〜4節
ペンテコステのキーワードは「風」です。聖書中の「風」という言葉は「息」を、また「霊」をも意味する言葉(ギリシア語では「プネウマ」)です。ここから二つのイメージを思い浮かべます。
一つは、創世記2章7節の「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」という場面です。人が人として生きるようにさせる神の息、それが神の霊、聖霊そのものです。
二つ目は、木立が風に吹かれて揺れ動いている光景です。風は目には見えません。しかし、それは大木をも揺り動かす力をもっています。風そのものは見えなくとも、その働き(木が揺れる、肌で感じる等)を知ることができ、それによって風の存在を知ることができます。聖霊も見たりつかんだりすることはできなくても、その働きによって存在を知るのです。
興味深いのは弟子たち一人一人に「舌」が与えられたということです。舌は「語る力」を意味します。続いて「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とありますが、この「言葉」という語は「舌」と同じ言葉です。彼らの言葉は、決して意味不明な叫びやつぶやきではありませんでした。7節以下には、周りの人々が「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と驚いたようすが記されています。
この出来事は、しばしば「バベルの塔」のできごとと対比されます。創世記11章に記された有名な「バベルの塔」の物語では、はじめ「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」のに、人間の高ぶりのために「互いの言葉が聞き分けられぬように」されてしまったことが記されています。言葉が互いに通じないことが世界の混迷の根底にある、という洞察が含まれていると言えるでしょう。それは人と人、国と国(ロシアとウクライナ)との関係においても同じです。
しかし、聖霊が降ることによってお互いに言葉が通じ、心が通い合ったというのです。聖霊は、そのような新しい関係を私たちに与える神ご自身なのです。使徒言行録2章9節以下に記されている国や地方は、当時知られていた全世界だと考えられます。世界中の人の言葉が通じ、心が通い合うようになったということです。つまりペンテコステの日に起きた出来事は、聖霊なる神の働きがその後のキリスト教会によってなされていくことを指し示しているのです。
ではこの時、弟子たちが話した内容は何だったのでしょう。彼らは「神の偉大な業」(同11節)を語りました。つまり、神様が人間を救うためにお与えくださった主イエスが誰であり、何をなされたのかということです。彼らは主イエスによって与えられた救いの事実を臆することなく大胆に語ったのです。
今日も全世界で何百という言語で礼拝が守られています。私たちは自分がいる教会のことしか見えないかもしれません。しかし聖霊が弟子たちに降り、彼らが霊に満たされ話しだした福音はペンテコステの日から二千年の間途切れることなく放たれ続け、今日も世界中の人々に届けられているのです。
ペンテコステは教会の始まり、そして閉ざされていた神の民が、外に向かって開かれ、いただいた恵みを伝え行くために広くされた出来事です。西千葉教会の窓も、私たちの心の扉も思いきって開け放ち、天からの風に吹かれてみましょう。息苦しい世界だからこそ。
文:真壁 巌 牧師