日本キリスト教団

西千葉教会

井深八重の生涯

2022年08月

 井深八重は旧会津藩家老の家柄に生まれましたが、母は幼い時に他界し、父は国会議員で家にいることも少なかったため、明治学院学長だった父方の叔父、井深梶之助の家に物心ついてから預けられました。そこで何不自由なく英才教育を施されて育ち、同志社女学校を卒業後、英語教師として長崎の県立女学校へ赴任します。
 しかし長崎での生活が一年過ぎて多くの女生徒たちから慕われていた頃、八重の肌に赤い斑点が幾つも出てきました。福岡の大学病院で精密検査を受けると、当時最も恐るべきハンセン病(当時はライ)と診断されてしまったのです。
 ご存じのように、当時、この病気は遺伝病という誤った俗説があり、恥ずべき業病とされていたため、名門井深家からハンセン病者を出すことは一族の重大事件でした。八重は病名をふせられたまま御殿場の神山(こうやま)復生病院に隔離入院させられ、また勝手に井深家から籍を抜かれてしまいました。
 八重が入院した病院はレゼー神父(フランス人)を院長とするハンセン病専門の病院でしたが、医師はレゼー神父以外にはおらず、看護師も無く、軽い患者が重い患者の世話をしている有様でした。
 症状が重くなると顔は崩れ、差し出す手の指は欠け、脚は膿が包帯からにじみ出て、死を待つのみの哀れな患者が苦しみの中で助けを求めてもがいています。それを見て八重は一瞬にして暗黒の奈落に突き落とされたような衝撃を感じ、将来の夢すべてを失った絶望から自殺を考えたことも度々でした。
 しかし、笑顔で患者たちに接し、自分も感染するかもしれないのに素手で患者をなでさするレゼー神父と患者たちの明るい姿を見て、八重は思いもよらぬ世界がここにあることに気づき始めます。
 井深八重がハンセン病と診断され、神山復生病院に入院して一年が過ぎた時、運命が再びいたずらをします。八重の醜い肌の斑点が不思議に消え、女性の肌の美しさが蘇ってきたのです。
 レゼー院長の勧めで東京の専門病院で精密検査を受けると、何と八重のハンセン病は誤診であったことが判明したのです。レゼー院長はとても喜び、「この病気でないことが分かった以上、あなたをここにお預かりすることは出来ません。自分で将来の道をお考えなさい。もし、日本にいるのが嫌ならば、フランスへ行ってはどうか。私の姪が喜んであなたを迎えるでしょう」とまで言ってくれました。
 一転して絶望の底から救われた八重でしたが、なぜか素直に喜んではいけない気がしていました。今自分がこの病気ではないという証明書を得たからといって、今更、大恩人のレゼー神父や、病者たちに背を向けることはできないと思ったのです。八重は、「もし許されるならばここに留まって働きたい」と答えます。やっと解放された病の恐怖に、今度は自分から飛び込んでいこうというのです。
 こうして八重は看護師免許を取得すると、正式に神山復生病院の看護師として奉職しました。それからというもの、老院長を助けて患者の看護はもちろん、病衣や包帯等の洗濯から食事の世話、経営費を切り詰めるための畑仕事、義援金の募集や経理まで、病院のためなら何でもしました。
 やがて救ライ事業に生涯を捧げた八重の労苦が世に認められるようになり数々の賞を受賞しました。1959年復生病院創立70周年にローマ法王ヨハネ23世から表彰されました。更に1961年には国際赤十字から看護師の最高名誉ナイチンゲール記章を受章しています。しかし、彼女が受けたもっとも価値ある賞は、患者たちから「母にもまさる母」と慕われたことであり、天国で受ける神さまからの表彰であったことでしょう。
 1989年5月15日、八重は91歳で天に帰りました。自分がハンセン病との誤診を受けたことについて、彼女はいつも周囲に次のように語っていたといいます。
 「自分がここにいることは恵みです。神さまからこの場を与えられたことを感謝しています。」

文:真壁 巌 牧師