日本キリスト教団

西千葉教会

高齢者の役割

2022年09月

 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。

ヨハネによる福音書 8章9節

 民衆は姦淫の現場で捕らえられた女性を指さし、主イエスに詰め寄ります。「先生、こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」(同4‐5節)と。もちろん、それは口実で、彼らの本当の目的は忌まわしいイエスを陥れることでした。彼らのしつこい問いに主イエスはついに立ち上がり、答えられます。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(同7節)。
 注目すべきはこれに続く冒頭句ですが、特に「年長者から始まって」という表現です。頭の回転も速く、体の動きも軽い若者たちではなく、年長者たちが先に立ち、それに従うように一人また一人と、立ち去って行ったというのです。
 以前の口語訳では「年寄りから始めて」と訳されていました。原語では複数形になっていますので、「高齢の者たちから、一人また一人立ち去って行った」と訳せます。
 とても興味深いです。主イエスの言葉を真正面に受け止めたのは、誰よりもまず年長者たちでした。「罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい」という言葉を、高齢者たちが最初に受け止めたのです。それはどうしてでしょう?若い人よりも高齢者のほうが人生をよく知り、人間をよく知り、自らの弱さをも弁えているでしょう。だから高齢者のほうが物事に対して謙虚になれるのかもしれません。
 私はここを読んだ時、重いハンセン病で苦しまれながらも熱心な信仰に生き、素直にご自分の境遇を受け入れた歌人、玉木愛子さんを思い起こしました。次の作品は彼女が残した私の大好きな歌です。
 「目をささげ、
  手足をささげ、
  降誕祭」 
 うっかりすると、人々の多くが心身の衰えだけに目を向けてしまいます。年老いて、身体の自由が少しずつ失われていくのは当然です。しかし、それを素直に受け入れることができるなら、私たちは人間としての成熟へと向かうことができるのではないでしょうか。
 玉木愛子さんは病のゆえに失明し、手足の自由も利かなくなりましたが、それはすでに神さまへお献げし、天国にお預けしているもの!との信仰態度を歌っているのです。
 まさに「老いの坂を上りゆき、頭(かしら)の雪つもるとも」(讃美歌54年版284番4節)です。年を重ねることは、ただ衰えてゆくばかりではなく、主によって赦され、生かされている命をしっかりと受け止めて成熟へと向かうことです。信仰者として生かされている私たちはこの事実をしっかり保ちながら歩みましょう。その時、「年長者から」その場を立ち去った意味と、高齢者の果たすべき役割を知ることができるはずです。
 更にもう一つ。使徒パウロの晩年から教えられることがあります。
 それは主人フィレモンのもとから逃げ出したオネシモという奴隷を、愛をもって執り成すパウロの姿を通してです。「むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが」(フィレモン9節)という挨拶の中にそんなパウロの姿が大変よく表れています。 
 使徒言行録に描かれているパウロはとても熱心ですが、他者に対しては厳しい面がありましたので、晩年のパウロとは別人のようです。何が彼を変えたのでしょう?聖書が告げているのは「年老いて」という表現だけです。パウロはオネシモを「わたしの子」(同10節)とさえ呼び、「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟として、オネシモをわたしと思って迎え入れてください」(同16‐17節)とフィレモンに懇願しているのです。
 今月の高齢感謝礼拝では75歳以上235名の方々の上に心から神さまの祝福をお祈りいたします。
 その上で、西千葉教会にも助言者である高齢者がいてくださることを改めて感謝したいと思います。

文:真壁 巌 牧師