愛は、すべてを完成させるきずな
2022年10月
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。 そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。
コロサイの信徒への手紙 3章12節〜17節
私たちが生きている世界には、人として最低限守らなくてはならないルールやマナーが存在しています。そういったルールやマナーというのは常識や道徳、あるいは倫理という言葉で表現されます。道徳という言葉を辞書でひいてみますと、次のような説明が載っていました。「ある社会で、人々がそれによって善悪を判断し,正しく行為するための規範の総体。法律と違い外的強制力としてではなく,個々人の内面的原理として働くものをいい,また宗教と異なって超越者との関係ではなく人間相互の関係を規定するもの。」この説明によると、人々は道徳によって善悪を判断すると定義づけられています。そして、その道徳というのは個々人の内面で生じるものであると書かれていました。この説明を読んだ時に、人々の考える道徳が非常に曖昧で不安定なもののように感じられる方もあるのではないでしょうか。何が善であり、また何が悪なのか、その判断がすべて個人に委ねられてしまうのでは、善悪の基準を一致させるということが到底叶わないからです。ですが、私たちの教会では何をその基準とするべきかが明確にされています。それは、私たちが毎週ささげる礼拝の中で唱えている、信仰告白の中にあります。旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の聖典なり。されば聖書は聖霊によりて神につき、救いにつきて全き知識をわれらに与うる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。この信仰告白を通して、日々親しんでいる神の御言葉が、私たちの信仰と生活における正しい決まり、守るように定められているルールであると、自分たちの口で宣言をしているのです。何より、旧新約聖書のことを指す、聖典を意味するカノンというギリシャ語は、本来「ものさし」、あるいは「規則」を意味する言葉でもあります。ですから、私たちは神から与えられた信仰のために、聖書によって定められたところにおいて一致することが求められています。それは決して個々人の判断に左右されるものではありません。申命記の13章1節には「あなたたちは、私の命じることをすべて忠実に守りなさい。これに何一つ加えたり、減らすことがあってはならない」と記されています。これは、神がお定めになったことに関して、人々が勝手に解釈することや歪めてしまうことを戒める言葉です。聖書で語られる言葉はすべて、私たちの生活の使信となって、それぞれが歩むべき道を示してくださいます。そのことを具体的に、私たちの生活の実践に大きく関わることとして語ろうとしたのが、パウロでした。
先ほど道徳という言葉に触れた時、その定義には「宗教とは異なり人間相互の関係を規定するもの」とありました。けれども、その説明では正確ではないと言わざるを得ないと思います。聖書には、私たちと神との関係だけでなく、隣人との関係のことを語る言葉も多く記されているからです。それは私たちと神との垂直の交わりが生まれる時、そこから隣人との水平の交わりが生まれるからです。特にこのコロサイの信徒へ宛てられた手紙には、人々との交わりの中でキリスト者がどのように生きるべきかという主題が、私たちとイエス・キリストとの関わりの中で語られています。そのことは12節の書き出しからも明らかです。あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい、と書かれています。パウロが語る私たちが身に着けるべき5つの性質は、キリスト者に特有のものです。それは、私たちが信仰を与えられ、聖なる者とされることによって生じる、信仰による行いだからです。その意味で、私たちの行いはこの世の考えや道徳を超える行いでもあります。その教えの最初にパウロは憐れみの心を挙げました。実は古代世界において著しく欠けていたものが、この憐れみの心であったと考えられています。老人や病人、体に障がいを抱えている人、立場的には弱者として見られる女性や子どもに対する配慮や、守ろうとする考えが大きく欠けていたということです。今では考えられないような常識の中で、パウロは憐れみの心という非常に革新的な考えを、この5つの中で最初に打ち出しました。それはキリストに結ばれた人だけがもつ特質として、当時の人々に大きな影響を与えたのではないかと考えられています。
憐れみの心に続けて、パウロは慈愛を身に着けるように語ります。この慈愛を、隣人の長所が自分のもののように思えること、と定義した神学者がありました。このことを突き詰めて考えてみれば、他人をうらやむことをせず、自分を誇らないでいられるという平安につながる、手がかりであると言うことができるのではないでしょうか。周りを見渡せば、そこには自分より優れた人や賢い人ばかりがいて、その人たちと自分を比較しては、人知れずため息をついている私たちがいます。けれども、私たちが互いに比べ合うために、神が賜物を与えてくださったのではないことを知っています。隣に座っている兄弟姉妹は、私たちが互いに仕え合うために、主が出会わせてくださった大切な助け手であり、私たちの友だからです。敬愛する兄弟姉妹の賜物を目の当たりにした時、どうしてその才能を妬むことができるでしょうか。私たちはそのタラントによって支えられ、また励まされることがあっても、それで自分が貶められることは決してありません。
それは、私たちが等しく神の子どもとされている、という自覚に由来しています。創造主の御前にあって、私たちは皆、神が手ずからつくられた被造物です。この自覚がパウロの語る謙遜につながっていきます。この謙遜というあり方は、キリスト教によって生み出された美徳であると考える学者もあるようです。それは、謙遜が単に自分を卑下することとは全く異なるからです。私たちが自分自身を劣った者として扱うことを、私たちをつくられた主は喜んでくださるでしょうか。自分を卑下するということは、主の御業を低く小さく見ようとしていることに他なりません。父なる神はそのようなことを望んではおられないのです。主が求めておられる謙遜とは、私たちが神から愛される存在としてこの世に生を受けたことを心に留めること。そして、その信仰によって生じる、他者の尊厳を守るという行いなのです。
さらにパウロは柔和と寛容を説きます。ヤコブの手紙3章13節に、「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な行いによって示しなさい」という言葉があります。これは、柔和な行いをするためには、神の知恵が必要になることを示している言葉ではないでしょうか。隣人に対してどのように振る舞うべきかについて思いを巡らせる時に、私たちは主イエスの言葉と行いを思い起こします。私たちが知る御子イエス・キリストは、一貫して隣人に対する忍耐を失われなかった、憐れみ深い方です。私たちの罪に耐え、最後まで愛し抜かれようとする、その主の生き様こそが、聖書の教える寛容になります。
そしてパウロは1番重要な教えを最後にもってきています。他の箇所からも、パウロがどれほど愛を重視していたのかが窺える箇所があります。それがコリントの信徒への手紙Ⅰ13章13節です。それゆえ、信仰と希望と愛、この3つはいつまでも残る。そのうち最も大いなるものは愛である、と彼は語っています。今日の聖書箇所でも、愛は、すべてを完成させるきずなであると書き残しています。これは、私たちの信仰が個々人の内面的で道徳的な価値観に押し止められてしまうような小さなものではないことを示す言葉です。道徳という言葉の裏には、「その人の徳の高さ」によってその人間性の高さを見る、という意味が暗に込められていると思います。しかし、私たちは、自分を良く見せるために、信仰の行いをしているのではありません。その行いの根拠となっている信仰の先におられる、主なる神が賛美を受けられるために、私たちはイエス・キリストに倣って生きようとしているのです。私たちは自分たちが善人であることを示すために、神が定められた善を行うのではなく、神が示された愛を伝えるために、主の御心を行おうとするのです。17節には、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行うように命じられています。私たちは主の名によって何かを行う時、その行いの先に、主が賛美を受けるように、主にのみ栄光があるように、という祈りが私たちの心を占めることになります。それは、私が人々から認められたい、あるいは讃えられたいという願いから離れていくことでもあるということです。そして、私たちが何かを成す時の根拠となる、その神の名前だけが人々に知られることを願ってなされる業が、信仰の行いなのです。この聖書の教えは、何も道徳や倫理を否定するものではありません。ですが、これは個人の内面だけで完結する価値基準では、不十分であることを教えようとしている言葉ではないかと思います。それは、私たちの考えと行いに神の愛が加わることで、信仰的な行いをなす者として神ご自身が私たちを用いてくださるようになるからです。それがパウロの語る「愛は、すべてを完成させるきずな」の意味するところではないでしょうか。
そして、愛はすべてを完成させるきずなというのは、キリスト者としての品性の完成を目指すことを表しているだけではなく、神と人との関係が愛によって完成することを表す言葉でもあります。それは愛の本質が、人々と主を1つに結び合わせることにあるからです。私たちが神のものとされ、キリスト者として身に着けるべきものを身に着けた時、私たちが置かれている場所から、キリストの平和が広がっていきます。主が賜ってくださる平和に与るというのは、単に争いがない状態を表す言葉ではありません。それは、神からの祝福と恵み、平安と喜びが私たちの心を満たすことなのです。パウロもこの平和があなたがたの心を支配するようにしなさいと語ります。そして、主にある平和を願う祈りの場へと私たちは招かれて1つの体とされています。ここでパウロは、教会における交わりの重要性についても語ろうとしているのだと思います。それは、同じ御言葉の恵みを味わい、私たちがささげる祈りの一致が求められているからではないでしょうか。どんな願い事であれ、あなたがたのうち、2人が地上で心を1つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。2人または3人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである、と主は言われました。14節に記されている、きずなという言葉は、聖書協会共同訳を見ると、「帯」という言葉で訳されています。それは私たちが集う場所にこそ主が共におられて、1つの体を形づくるための帯として、私たちを結び合わせてくださるということです。そして、パウロがここで語ろうとしている完成とは、私たちのキリストの体としての一致と、神との霊的な一致なのです。これはパウロだけでなく、神ご自身が私たちに望んでおられることでもあります。それは、私たちキリスト者にとって、この一致によって与ることのできるキリストの平和こそが、私たちの歩みを真実に幸いなものへと変えさせてくださるからです。その御心に応えるために、誤りなき規範としての神の御言葉に、依り頼みながら歩む私たちでありたいと願います。常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道をまっすぐにしてくださる。
文:菊地 信行伝道師