日本キリスト教団

西千葉教会

神の国に入れる条件

2022年11月

 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

マルコによる福音書 10章14節〜15節

 主イエスは子どもたちを前に「神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃいました。当時のイスラエル社会において子どもとは、「いまだ完全な人間になってはいない存在」とされていました。つまり子どもは当然、聖書に記されている律法を理解して守ることはできません。それゆえに子どもたちは完全な人間として受け入れられてはいなかったのです。 ですから、主イエスの言葉は、人々の価値観を180度ひっくり返すものでした。
 当時、子どもの他にも一人前の人間ではないと見なされていた人々がいました。職業などの事情によって、律法を守ることができずに生活していた人々です。例えば、日雇い労働者、娼婦、徴税人、羊飼いや豚飼い、奴隷たちがそうでした。また、病いや障がいをもっている人々も律法を守ることができない存在として社会から遠ざけられていました。そのような価値判断に「否」を突きつけたのが主イエスであったことを聖書は記しています。
 律法を守る自分たちを正しい者とし、そうではない人々を罪人として軽んじる律法学者やファリサイ派の人々を、主イエスは痛烈に批判されました。そして「私は正しい者ではなく、社会から罪人というレッテルを貼られ、偏見や差別を受けている人々を招くために来たのだ」と言われたのです(マルコ2:17)。
 自分が素晴らしい業績を上げれば、周囲の人々は自分を認めてくれるようになる。自分が素晴らしい信仰をもてば、神さまは自分を愛してくれるようになる。いつの間にか私たちも心のどこかでそう考えてしまっていないでしょうか。無意識にそんな条件付きの世界を生きてしまっていることが実に多いように思います。しかしもちろん、いつもその条件を満たすことができるわけではありません。そして次第に自分は価値がない人間のように思えてきます。その結果、自分より更に条件を満たしていない人を見つけ出し、その人を見下すことによって優越感を得ようとするのですが、それで本当に満足することは決してありません。
 そんな条件付きと対照的なのが無条件の世界です。私たちが何か素晴らしい業績を上げるからではなく、素晴らしい人間になるからでもなく、ただ〝あるがまま〟の自分という存在が受け入れられている世界です。主イエスが「神の国」と呼んだのは、他でもない、この無条件の世界のことを指しています。私たちはこの世界に出会ってこそ、再び立ち上がれる生きる力を得るのではないでしょうか。この世界に支えられて私たちは自らの弱さや過ちを受け入れることができ、より自分らしく成長してゆくことができるのです。
 主イエスは子どもたちの素直さや純真さを評価してこう言われたのではありません。律法を守ることが出来ず、素晴らしい働きができるわけでもない子どもたちを主イエスは〝あるがままに〟受けとめてくださったのです。私たちもまた、自分で自分に課している条件を一度手放してみた時、今、ここに神の国の福音が宣言されていることに気づかされます。「律法をきちんと守る人でなければ、神の国に決して入ることが出来ない」というのは、私たちの理想であり幻想であったことを知らされます。 
 何の勲もない私たちが無条件で神の国に招かれているのです。 私たち自身が神の国において幼子のような存在なのです。連れて来られた子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福してくださった主イエスは、今も私たち一人ひとりをその腕で抱き上げ、祝福して言われます。
 「あなたが今ここに居ることこそが尊い。あなたが存在し、生きていてくれることこそが、私にとって何よりの喜びである!」と。

文:真壁 巌 牧師