信仰と行い
2023年02月
神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。
ヤコブの手紙 2章21節
聖書において、信仰と行いが一緒に語られている箇所は、あまり多くないように思われます。そして、教会が教える信仰の理解が、この二つの事柄を結びつけることをより難しくしているのではないかと思います。それが信仰義認という考え方です。パウロが力強く繰り返し語った、信じることによって義とされるという教えです。しかし、それだけでは信仰が完成しないことがここでは語られています。
聖書において信仰を意味する言葉は実は一つだけではありません。そのうちの、エウセベイアという言葉をご一緒に心に留めたいと思います。日本語では信じる心と書いて、信心と訳されます。このエウセベイアという言葉が実際に使われているのが、使徒言行録です。それは、ペトロが「美しい門」と呼ばれる場所で、足の不自由な男を癒した出来事のすぐ後の箇所になります。その出来事を見て驚いている群衆にペトロはこう語りかけます。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめるのですか。」このエウセベイアは名詞ですが、これが動詞に変化するとエウセベインとなり、「信じる」ではなく、「礼拝する」という意味になるのです。この言葉から、信仰と行いが深く結びつけられて考えられていたこと、また行いが信仰を完成させるということへの理解を深めることができます。
それでは私たちが求められている礼拝とはどのような行いなのでしょうか。そのことを、先ほど引用した使徒言行録のペトロの働きから、確かめてみます。足の不自由な男は美しい門という神殿の境内の中で人々から施しをもらうために、門のそばに置いてもらっていました。そこにペトロとヨハネが通りかかります。そしてペトロはその男に「わたしたちを見なさい」と命じています。それから「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と語りかけました。すると男は歩き回り、神を賛美したと書かれています。ここに、私たちのなすべき礼拝のあり方が示されているのではないでしょうか。聖書は足の不自由な男を、自身の苦しみや悲しみのために、主の御名を忘れてしまっている、あるいは知らない者の姿として描き出そうとしているように思います。絶望から抜け出す道を知らない者に、イエス・キリストこそが私たちの道であり、真理であり、命である。そのことをペトロは言葉と行いよって示したのでした。そして、救いの恵みに与った者は、その恵みと信仰のゆえに神を賛美しました。この神を賛美することこそ、私たちが求められている行いの本質なのです。そのことをルカによる福音書にある、主が重い皮膚病を患っている十人を癒す物語に見ることができます。彼らは主イエスによって清められましたが、自分が癒されたことを知って主に感謝し、賛美を献げるために戻ってきたのは、そのうちの一人だけでした。その彼に向かって主は「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのでした。この者は、まさに感謝と賛美を献げるという行いによって信仰が完成し、また本当の救いが実現したのです。神から恵みをいただき、それに応えること、それが聖書の語る信心、信仰と行いなのです。
パウロはこの信心と品位を保つことがクリスチャンの目標であることを語っています。これは信仰者としての完成と言い換えても良いと思います。そして私たちは信仰者としての最初の完成を、イエス・キリストに見るのです。主は私たちに信仰の何たるかを教え、それに伴う行いがあることを、身をもって示してくださいました。先ほどの使徒言行録の物語で、ペトロが足の不自由な男にイエス・キリストの御名を与える前に、まず自分たちの姿を見るようにと命じたのは、このことと関係があるように思います。それは、私たちが主を証しする姿の内に、人々がイエス・キリストを見出すためではないでしょうか。私たちの業を、神はご自分の御業の一つへと変えてくださるのです。私たちの手の業を清めて用いてくださる主に信頼し、また委ねつつ、神の愛に応える者として、私たちの信仰と行いとがますます練り清められていくことを、共に祈り求めてまいりたいと願います。
文:菊地信行伝道師