日本キリスト教団

西千葉教会

主を賛美するために戻る場所

2023年03月

 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。

ルカによる福音書 17章12節〜13節

 病人が振り絞る精一杯の声です。本当なら、主イエスの足もとに跳んで行きたい。癒されるかもしれない、万に一つのチャンスです。しかし彼らは決して近づきません。近づいてはいけないことを知っているからです。当時、この病気に罹った人は、「衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない」(レビ13:45)と規定されていたのです。
「イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた」(14節)。重い皮膚病について診断を下すのは、祭司の仕事でした。「祭司たちのところへ行け」、「あなたがたは癒される」との約束の言葉を与えられたのです。一同は祭司の所へ向かいます。そしてその途中、十人の患者たちは全員癒されたのです。
 「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった」(15—16)。癒された十人の内、一人だけが神を賛美し、主イエスに感謝をささげるために戻って来たのです。その人はサマリア人でした。注目すべきは、主イエスは戻ってきたこの人に救いを宣言されたということです。もちろん、病が癒されることは感謝すべきことです。深く病んだ人でなければ、癒されることの喜びを心底から語ることは出来ないでしょう。けれども癒しは人が与えることも出来ます。今日重い皮膚病にかかったとしても、聖書が書かれた時代のような恐れや深刻さはありません。しかしその後、癒された十人もいずれ年を取り、世を去ったことでしょう。人は病と癒しを繰り返しながら死を迎えるのです。これに対して救いはどうでしょう。人を救うことが出来るのは神だけです。ところが多くの場合、この神が遠い存在で、なかなか気づきません。しかしこのサマリア人は戻って来ました。強いられてではなく自分から主イエスの前にひれ伏して、万感の感謝をささげずにはいられなくなったのです。ここに救いがあります。癒しの出来事を通して彼は主イエスと結ばれました。主イエスの前にひれ伏したこの人は今、父なる神の御手の中に戻って来たのです。長い間、迷い苦しんだ魂がここでようやく命の源である神への帰還を果たしたのです。
 神さまが私たちに求められること、それは日々新た生きる命を注いでくださるお方を知り、日々感謝して生きることに他なりません。そこにこそ信仰の応答が集約されているのです。私たちは「主を賛美するために創造された」(詩編102の19)神の民なのですから。
 主イエスはこの人に言われました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(19節)。病を癒されることが救いではありません。病気であっても病人ではない生き方(樋野興夫)、神の御手の内にある喜びと感謝をもって生きる(つまり平安に病む)ことこそが救いなのです。
 主イエスは彼を立ち上がらせ、送り出しました。ここからは私の想像なのですが、時間を経た後、彼は聞くのです。「ナザレのイエスが十字架につけられた」。「なぜ、あのお方が殺されなければならない」。やがて、彼はまた聞きます。「ナザレのイエスは復活した。あの方の十字架はわたしたちを罪から救うためのものだった。」そして彼は主イエスの弟子になるのです。この日の出来事が生涯を照らす恵みの光に変わったことを、彼は死ぬまで語り続けたのです。「あの方が本当の救いを与えてくださった。今も私の内に生きておられる」と。

主よ、救われた者として繰り返しあなたを賛美するために立ち帰る私たちとならせてください。  
アーメン
 

文:真壁 巌 牧師