日本キリスト教団

西千葉教会

神から見捨てられた神の子

2023年04月

 わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。

詩編 22編2節

 主イエスは十字架におかかりになりながら、冒頭の聖句を口にされました。その上で、ご自分が今、本当に父なる神に捨てられるということをしっかり受け止めておられたのです。主イエスが神に捨てられるような悪いことなど何もしていないのは当然です。しかし、今自分が神に見捨てられるということを、神の御心として受け止められたのです。そしてこの時主は私たちには想像もできないほどの深い絶望を味わっておられたに違いありません。
 そして主イエスはその嘆きを味わいながら、なぜそれが父なる神の御心であるか、なぜそれが必要であるかも知っておられました。それは父なる神が、敵対する者、自分の利益のためにしか神を拝まず、利用しようとする者さえ愛し、赦し、御自身の子として迎えようとされたからです。主イエスは、自分を十字架にかけ、自分を罵しり、嘲り笑っているこの群衆の身代わりとして神に裁かれ、捨てられなければならないことを知っておられました。その上で発せられたのが、「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか」(口語訳)という十字架上の言葉だったのです。
 まことの神に敵対し、神の子さえも十字架にかけるような者たちへの裁きですから、徹底的に神に見捨てられなければならないのは当然です。だからこそ、主イエスがこの時口にされた「なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、確実に自分が父なる神に見捨てられることを覚悟する言葉でもありました。それは罪のゆえに死なれ、陰府に降った者たちの所にまで行くことを覚悟しておられる言葉でもあったのです。
 それでも自分を見捨てる神に向かって、主イエスはなおも「わが神、わが神」と呼び求めます。この状況でさえ、主イエスと父なる神との関係は揺らいでいないのです。このような父なる神と御子イエスとの交わりと愛の深さ、その絶対的信頼を私たちは知りようがありません。だからこそ、この主イエスの言葉はどこまでも謎であり続けるのでしょう。しかし、これだけは分かります。この父なる神と御子イエスの永遠の愛の交わりのゆえに主イエスの十字架の出来事があり、この十字架のお陰で私たちは救われたのだということです。そして、この交わりの中に私たちも招かれているということです。主イエスが苦しみと絶望の中で「わたしの神よ」と祈られたように、私たちもどんな境遇に遭っても「わたしの神よ」と祈ることが出来る者とされているのです。
 主イエスの十字架を、私たちはただ気の毒にという思いで見ることは出来ません。それは傍観者の見方です。この方の苦しみが私たちのために、私たちに代わってのものであることを知らされたのです。だから、何よりもまずごめんなさい、どうぞ赦しください、そのように受け取る者でありたいと思います。
 以前、この時期に幼稚園の子どもたちと一緒に歌った思い出深いようじさんびかがあります。

 ある日イエスさまに聞いてみたんだ どれくらい僕を 愛してるの?
 これくらいかな?これくらいかな?イエスさまは黙って微笑んでる

 もいちどイエスさまに聞いてみたんだ 
 どれくらい僕を愛しているの?
 これくらいかな?これくらいかな?イエスさまは優しく微笑んでる

 ある日イエスさまは答えてくれた  静かに両手を広げて
 その手のひらに くぎを打たれて 十字架にかかってくださった
 それは僕の罪のため ごめんね  ありがとう イエスさま
 ごめんね ありがとう イエスさま       
    (両手いっぱいの愛)

 今日から始まる受難週の日々、十字架の主イエスをしっかり見上げて、イースターを迎えましょう。
 

文:真壁 巌 牧師