日本キリスト教団

西千葉教会

トマスが教会の代表?

2023年05月

 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

ヨハネによる福音書 20章28節〜29節

 最初のイースターから一週間後の日曜日、弟子たちは、同じ場所に同じように集まっていました。ただし一週間前とは違い、そこにはトマスもいました。「自分は絶対に信じない」と意地を張り、信じることを拒みながらも何かを求め、弟子たちと一緒にいたのです。
教会に来られる人の中に、「神様を信じたいけれど信じられない」という人がいますが、この時のトマスに似ているかも知れません。決して今のままでいいと思っているわけではなく、疑いもある。同時に自分の疑いの方が間違っていると説得されたいとの思いもある。その意味で、この時のトマスは懐疑的ではあっても冷笑的ではなく、「復活なんて、ばかばかしい」と言っているわけではないのです。
この日、主イエスはトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(27節)と言われました。主イエスはトマスの気持ちをよくご存知であり、彼ひとりのためにわざわざその御姿を現してくださったのです。
 果たして、トマスは主イエスが言われた通り、主の体に触れたでしょうか?私は実際には触れなかったと思っています。その理由はこうです。主イエスは「信じられない」というトマスのため、彼の求めに対して、それを超える誠実さ、愛情を示してくださいました。それが分かった時、もはやトマスは主イエスに触れることができなかっただけではなく、もう触れる必要がなくなったのです。
 トマスはかつて「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(ヨハネ11章16節)とまで口にする勇気ある弟子でした。しかし実際に主イエスの十字架の出来事を目の当たりにした時、自分は決して主イエスのために死ぬことができるような人間ではなかったということを思い知らされ、悶々としていたのではないでしょうか。そして主イエスの傷跡を見た瞬間、そのような不信仰な自分のためにこそ、主イエスは十字架におかかりくださったということが明らかになったのです。「この私が主イエスを苦しめ、十字架にかけた」という真実、更に「この私のためにこそ、主は十字架におかかりくださった」確信が結びついたのです。
 主イエスはトマスの求めを受けとめ、それを超える大きな愛でトマスを変えられました。トマスの「わたしの主、わたしの神よ」という告白を受け、主イエスは、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)と結んでいます。確かにトマスが主を信じたのは、見たことをきっかけにしていますが、「わたしの主、わたしの神よ」(28節)とまで言うことができたのは、むしろ主イエスの見えない力に信頼したからに違いありません。
 ヨハネ福音書の本文は、20章で終わっていたとされています(21は後代の付加です)。ですから、この時トマスが発した「わたしの主、わたしの神よ」という信仰告白こそ、ヨハネ福音書のクライマックスであると言えます。
最初のイースターの日に仲間の弟子たちと一緒におらず、一週間後に同席したトマスは、主イエスをまだ知らない、後に加わる信徒たちの象徴であると言われます。まさしく未来の教会の代表者です。なぜなら、最初の時にいなくても、後に復活の主イエスに出会い、「わたしの主、わたしの神よ」と告白して教会という群れに加えられた私たちの代表なのですから。
「ディディモと呼ばれるトマス」(24節)とありますが、ディディモは「双子」という意味です。ある人が「トマスの双子の兄弟は私たち自身だ」と言っています。トマスと同じく、信じるか信じないか、その間をさ迷っているような私たちに対しても、主イエスのほうから真っ先に近寄って来られ、トマスに語られたのと同じ言葉をかけてくださるのです。

文:真壁 巌 牧師