日本キリスト教団

西千葉教会

天に富を積む

2023年06月

 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

マルコによる福音書 10章21節

 主は財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことかと言われました。さらに金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しいとまで言われたのでした。私たちの罪に対しては深い憐れみを示してくださる神も、裕福だと神の国に入ることが難しいと言われる理由はどこにあるのでしょうか。旧約聖書において、神の民であるイスラエルが裕福であること、繁栄していることは、神の愛を象徴していました。それは、主がご自分の民を養ってくださることの表れとしての、豊かさだったからです。神の恵みとしての富を、主イエスは神の国に入ることへの妨げと見なしたということは、金持ちの男にとっても、弟子たちにとっても大きな驚きだったに違いありません。エーベリングという神学者は「天のあるところに、神がいますのではなく、神のいますところこそ天なのである」という言葉を残しました。この言葉は、イエス・キリストがおられる場所こそが神の国であることを意味しています。金持ちの男は、永遠の命を得るために「わたしに従いなさい」と言われた主イエスの前から、悲しみながら立ち去りました。また主イエスは、あなたの富があるところに、あなたの心もあるのだと教えられています。ですから、「わたしに従いなさい」という言葉には、この世の富に対する執着、愛着を捨てるようにという勧めの意味がありました。財産をたくさん所有することに心を砕くのではなく、主に仕えることの先に永遠の命という、何物にも代え難い、財産では買うことのできない恵みを受けてほしいという、主イエスの願いがここに示されているのです。
 「天に富を積む」という言葉を大胆に捉え直すとしたら、「神の国においてキリストを所有し、保つようになる」という意味で語り直すことができます。つまり、この時の主イエスの言葉によって、豊かさの意味が変わったことの宣言がなされたのでした。それは旧約聖書で語られているような、イスラエルの繁栄を失うということではありません。神が私たちの必要を満たしてくださるという恵み深さから、ご自分の民を養うための豊かさを今も注いでくださっていることを、私たちは身をもって知っているからです。本当なら私たちでは受け取ることのできないような富を、十字架の主を仰ぎ見ることによって手にすることができるようになります。そのことをよく表した物語が、ルカ福音書に記されている放蕩息子のたとえではないかと思うのです。父親から自分の財産の分け前を受け取り、放蕩の限りを尽くした末の息子は、父のもとに帰ってきて「もう息子と呼ばれる資格はない」と謝ります。もう父から愛してもらえるはずがない彼に、父は宴会を開いて息子が帰ってきたことを心から喜びます。帰ってきた息子の兄は、これを知って憤りました。そこで父親はこの兄に、富について説き明かそうとしたのではないかと思います。「お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」この言葉に、主イエスが教える本当の豊かさが示されているのではないでしょうか。この父親は多くの財産を持っていたように見受けられます。お金や土地、家畜といった生活を保証してくれるすべてを持っていました。そして、これらのものはすべて、父と一緒にいる兄のものでもある。一緒にいることができるというのは、その所有物を分かち合う関係に置かれているということになるのです。これが、神の豊かさの本質に他なりません。私たちが主なる神を「父よ」と呼ぶことができ、また父が私たちを「子よ」と呼んでくださる、この関係から本当の豊かさが生まれてくるのです。

文:菊地信行伝道師