日本キリスト教団

西千葉教会

教会らしい風景

2023年09月

 『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。

使徒言行録 2章17節

 数年前に見たドラマです。アメリカのあるユダヤ人家庭の物語で、店を経営する若夫婦に幼い男の子が一人、それに夫の父親の四人家族という設定です。この老人は伝統的なユダヤ教徒で、黒服に黒帽子をかぶって長い髭を生やし、馬車をひかせ、悠々自適に暮らしています。それが息子は気に入らないのですが、孫はおじいちゃんが大好きでした。
 ある時、二人はお弁当を持って野原に行きます。そこで孫は尋ねます。「おじいちゃん、どうしてこんなにきれいに花が咲くの?」老人はゆっくりと「それは神様がすべてのものに愛を送ってくださるからだよ。すると草も木も嬉しくなってじっとしていられなくなるのさ」と話し、一緒に踊り出すのです。今も心に残る素晴らしい場面でした。
 ところが孫がその日のことを父親に話すと、「しょうがないな、おやじは。役に立たないことばかり教えて」と、眉をしかめるのです。確かに役に立つことは大切です。だから若くて働き盛りなのは喜ばしいことです。同時に大切なのは、私たちの社会が本当に人に優しい、愛情豊かな社会になることです。そのために重要な役割を果たしている人々がいることを忘れてはならないというのが、このドラマのメッセージだと思いました。
 その人々とは、まだ働くことができない幼い子どもたちや働くことができなくなったお年寄りたち。そして健常者と同じように働けない病人や障害を負った人たちです。でもこのような人々は役に立たないどころか、健全な社会のためになくてはならない存在なのです。主イエスも、このような社会的に弱い立場の人々に目を向け、彼らと一緒に生きた方でした。それは同情からではなく、これらの人々こそこの世界を人間らしい愛に満ちたものにするために神に選ばれた人たちだと考えられたのです。「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ10:15)とは、そんな主の御心を示していると言えます。
 冒頭の聖句は聖霊降臨日にペトロが人々に説教した際、引用した預言者ヨエルの言葉です。老若男女が集う場所こそ教会らしい風景ですが、主イエスは「二人、または三人がわたしの名によって集るところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)とも言われました。この御言葉を聞くと、シモーヌ・ヴェイユという思想哲学者を思い出します。
 彼女は幼い頃から非凡な才能を認められ、若くして教授となり哲学を教え始めた早熟の天才でした。ユダヤ人でもある彼女が生きた時代はナチス占領下のフランスで、抵抗運動に身を投じた人生でした。苦しんでいる人々から決して目を背けず、1943年に34歳で世を去ります。彼女はナチス占領下で苦しむ同胞を思って食事を取らず、餓死同様の死を迎えたのです。
 その彼女が言ったのです。「イエスは二人、または三人と言われたのであって、二百人、三百人と言われたのではない」と。彼女が言いたかったことは「注意力」のことです。二人、または三人の場合、そばにいる人が何を悩み、苦しんでいるかについて注意が行き届きますが、二百人、三百人ではそれが難しいでしょう。改めて主イエスが常に弱い立場の人々に対する注意力を研ぎ澄まして生きた方であったと確信します。
 西千葉教会は来年創立120周年を迎えます。その感謝として、「息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」との御言葉通り、共に集められている老若男女が役に立つか立たないかではなく、存在そのものを喜び合える希望と平安に満ちた教会らしい風景を保ち続けましょう。

文:真壁 巌 牧師