日本キリスト教団

西千葉教会

先立って行かれる主

2023年10月

 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

マルコによる福音書 16章7節

 ガリラヤという場所は、主イエスが伝道を始められた場所であり、また弟子たちや彼らについていった女性たちの出身地でもありました。そこで再び出会われると決めておられたのは、主イエスとの最初の出会いと、共に過ごした日々を思い起こさせるためだったように思います。弟子たちにとってイエス様と共に伝道に赴いた三年間は、神の御業を目撃するという驚きの連続でした。それは、ガリラヤから始まった旅が、弟子たちにとって復活を信じるようになるきっかけになることを願ってのお考えだったのかもしれません。また、このガリラヤという場所は弟子たちにとって生活の中心となっていた場所でもあります。そこでイエス様が待っておられるというのは、弟子たちの生活の中心に、いつも主がいてくださることを示すためだったのではないかと思います。ですから、イエス・キリストと復活の出来事を強く結びつけ、それを真実として弟子たちに示すために、主はガリラヤを選ばれたということです。
 それは、復活を過去の出来事、あるいは主イエスを過去の人物として思い出にしないということでもあります。弟子たちが、そして私たちが絶えず思い起こすべきイエス・キリストは今も生きておられるからです。それも、遠く離れて私たちを見守っているのではなく、私たちの日常生活のただ中におられるのです。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる」という言葉は、御子イエスが十字架にかけられた後、気持ちが萎えてしまっている弟子たちに語られた慰めでした。七節には、復活された主がガリラヤでお会いになることを弟子たちとペトロに告げなさいと、墓の中にいた若者が女性たちに言っています。復活の朝の出来事は他の福音書すべてに書かれていますが、この箇所にあるように「弟子たちとペトロに伝えなさい」と、ペトロの名前を挙げているのはこのマルコだけです。それはきっと、絶望の中に置かれ、信仰を失くしてしまいそうになっているペトロを、主は特別に目をかけておられたということではないでしょうか。ペトロは三度イエス様を知らないと言って、自分の信仰の弱さに嘆き悲しみました。そのことでペトロはずっと後悔していたはずです。その後悔と、もうイエス様に合わせる顔がないという思いが、復活の主との再会の妨げとなっていたと思います。そうした取り返しのつかない過ちを犯したペトロに対して、主イエスはガリラヤで待っていると告げるのです。償いきれない罪を犯してしまった絶望や悲しみに打ちひしがれていても、日常は私たちの暗い気持ちに関係なく過ぎていきます。その生活の中に戻って行く時、その罪を赦して、共に歩もうとしてくださる、復活の主とペトロは出会い直すのです。それがガリラヤという場所に示されているペトロと弟子たちへの励ましでした。そして、今も生きておられる主は、私たちの日常のただ中にもいてくださり、また出会ってくださるのです。
 また、ペトロが主イエスから受けていたのは、こうした慰めと励ましだけではなかったことがルカ福音書で語られています。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ペトロは主の憐みだけでなく、祈りによっても支えられていたことが分かります。罪や過ちのためにもうイエス様に見捨てられても仕方がないというのは、私たちの勝手な決めつけに過ぎません。主が私たちに本当に伝えたいことは、主イエスと私たちが出会うことを妨げるものは何もないという恵みの事実なのです。
 復活の主に出会う時、弟子たちはいつだって、そうした負い目を超え、心燃やされてきました。それはエマオに向かう途中の弟子たちも、自分の目で見なければ信じないと言っていたトマスもそうでした。イエス様は、そうした負い目や絶望、痛みや苦しみの先で、いつも私たちのことを待っていてくださるのです。

文:菊地 信行伝道師