日本キリスト教団

西千葉教会

「主は御座を高く置き なお、低く下って 天と地を御覧になる。」

2024年01月

 わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き なお、低く下って天と地を御覧になる。

詩編 113編5節〜6節

 2024年の年間主題聖句として、詩編から表題の聖句が示されました。20年~23年は予想通りコロナと共に歩む歴史的な経験をしました。またこの間の年間主題聖句もコロナ下における信仰生活を支える御言葉によって養われてきました。昨年は「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカ12:32)を通して、神の国(支配)は主イエスが世に来てくださったことによりすでに到来している希望と励ましを与えられました。
 その一方で、ウクライナでの戦争終結の目途は立たず、昨秋からはイスラエルとガザ(ハマス)との激しい戦闘が始まり、いと小さき者が犠牲となる中、神は今どこで何を御覧になっておられるのか、そう問うのがこの世の声でしょう。
今年の聖句はそんな世界に対する神からの応答そのものと言えます。
 さて、詩編には「嘆き」「賛美」「感謝」「祈り」「報復」など、様々な内容が含まれています。113編は、導入として「賛美せよ」という命令形の勧めがなされている典型的な賛美の詩編です。そして中心部では、決定的に重要な神の姿が描かれています。それは元来、神は全てを超えた高き方であるにもかかわらず、なお「低く下って」人間の現実に深く関わって来られ、社会的・精神的に困窮状態にある者を自由にし、癒してくださると記されています。
 これは旧約聖書の中心テーマである「低きにくだる神」(左近 淑)の姿を最も端的に表している聖書個所です。同様の神の姿は、詩編18:10にも見られますが、「主は天を傾けて降り」は「神は天を引き裂いて降り」とも訳せます。すなわち旧約聖書の人々は、神と人間の住む大地との間には幾層にも天が張られていると考えていて、神は時として、その天を引き裂いてまで人間に近づいて来てくださるというのです。その事実は113編において、より深く考えられ、さらに磨かれた言葉で表現されているのです。
 113編が描写的に賛美している「低きに下る神」は、詩編における神の姿を示す最も深い表現であり、同時に旧約聖書が人々に伝えようとしている神の救いの到達点とも言えるでしょう。そしてこの神は間違いなく、今も私たちの生きるこの世界のただ中におられるお方なのです。
 そして忘れてならないことは、「神の愛(慈しみ)は、いつの時代もこの世界・歴史への神の介入として語られ、特に歴史における小さな者、弱者、捨てられた者に向かうという事実です」(左近 淑)。
 この神の姿はクリスマスに神の御子によって明らかにされました。
 
 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
 (フィリピ2:6‐8)

 「キリスト賛歌」と呼ばれるこの聖句は初代教会の賛美歌だったと言われますが、当時の人々にとっては大変にショッキングな内容が含まれていました。なぜなら、神が一人の人間としてこの世に生まれ、惨めで苦しい死に方をしなければならなかったからです。人々は最初「あのような惨めな死に方をした犯罪者が神なのか。神とはもっと気高く力強く、王のように、あるいは天上に君臨する神々のように重々しい存在であるべき」と思っていたはずです。
 しかしこの賛歌は、人々が神らしいと想像していた存在とは違っていました。二千年前、全き人としてこの世に生まれ、十字架と復活の主イエスの出来事が人々に示したものは「自分を無にして低きに(陰府にまで)下る神こそ」がまことの神だという認識でした。クリスマスに天使たちが「神に栄光、地に平和」と歌いましたが、世に平和をもたらすために神は御自分の「栄光(重さを意味する語)」を捨てられました。
 この愛ゆえに「神の身分に固執せず」死のただ中にまで踏み込まれる神。ここまで人に近くある神は他にありません。この賛歌は旧新約聖書を貫く救いの約束、まさに「低きに下る神」が世に来られ、今も共におられる事実を証明しているのです。
 神は今どこに? ここにいます。

文:真壁 巌 牧師