光の中にいる私たち
2024年02月
「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。 兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。 しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。
ヨハネの手紙一 2章9節〜11節
この手紙を書いたヨハネは、福音書を書いているヨハネと同一人物だと言われています。彼は自分が書いた福音書の最初でも、光と闇について記していました。それが「初めに言があった」という書き出しから始まる御言葉です。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と書かれています。暗闇は光を理解しなかったという訳は、口語訳では「そして、闇はこれに勝たなかった」という言葉になっていました。闇は光に勝てないという、この関係性が明らかにされている翻訳を好まれる説教者も多いようです。
そして、私たちは世界に対して、あるいはこの世の闇に対してどうするべきかを、主イエスは教えてくださっています。主は「あなたがたは世の光である」と言われました。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」そして、私たちが世の光とされているのは、イエス・キリストに従う者とされているからです。また、主は「わたしは世の光である」と言われます。そして「わたしに従う者は、暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」これはヨハネが福音書に書き残した言葉の一節でもありました。この世界は闇の中にあるから、神も私たちも、その世界を愛さないということにはなりません。むしろ、光が当たらない場所にこそ、神と私たちという光を当てるべきなのです。
「光の中にいると言いながら、兄弟を憎む者は今なお闇の中にいます。」光という、主の愛の中に留まりたいと願いながらも、闇の近くに身を置いてしまう私たちのことがここでは言われています。主イエスから命の光を与えられた今でも、闇の中に身を置こうとしてしまう私たちのために、ヨハネはこの手紙を書いたのでした。12節です。「子たちよ、わたしがあなたに書いているのは、イエスの名によってあなたがたの罪が赦されているからである。」私たちの罪はすでに、イエス・キリストの名によって赦されました。先に罪を赦していただいた者として、私たちは人々を裁くのではなく、主に倣って赦す者として生きるようにと命じられています。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」これもヨハネ福音書の言葉です。私たちが赦さなければ、その人の罪はそのまま残ると主は言われました。これもまた、私たちの近くに闇を置くことなのです。闇の中に入って行って交わりを持ってはいけないからと言って、ただそこから離れて距離を置けば良いと、主イエスは言われませんでした。赦しという光で、私たちと人々の罪を照らし出すのが、命の光を与えられた者としての生き方なのです。
だから、どうか光の中で生きることの喜びを忘れないでほしい、そんなヨハネの願いがここに込められているのではないでしょうか。そのことを思い起こさせるために、ヨハネはここで新しい掟を書き送ったように思うのです。ここでヨハネが言う新しい掟というのは、ヨハネ福音書13章34節に記されているものを指しています。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」互いに愛し合う関係に置かれること、それがヨハネの望んでいる、何より主ご自身が望んでおられる「光の中にいること」なのです。
文:菊地信行伝道師