日本キリスト教団

西千葉教会

わたしは主、あなたの神

2024年03月

 我々の神、主は、ホレブで我々と契約を結ばれた。 主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた。

申命記 5章2節〜3節

 旧約聖書中、「十戒」の本文は2回出てきます。出エジプト記20章と申命記5章ですが、申命記には出エジプト記にはない長い導入部があります。「イスラエルよ、聞け。今日、わたしは掟と法を語り聞かせる。あなたたちはこれを学び、忠実に守りなさい…」(1節)。
 それから冒頭の聖句へとつながるのですが、ここでの鍵となる語は「契約」です。「契約」を『広辞苑』で調べますと、1)約束、2)対立する複数の意思表示の合致によって成立する法律行為(売買・譲渡・雇用など)と説明されています。その後に、3)キリスト教で、神が救いの業を成し遂げるために、人間に対して示す特別な意思、とありました。つまり「契約」にはキリスト教的な意味が付されており、冒頭の 「我々の神、主は、ホレブで我々と契約を結ばれた」(2節)という聖句がそれを示しています。
 私が神学校卒業後に遣わされた最初の任地は青森県の津軽でした。そこで先輩の老牧師から聞かされたとても興味深いお話があります。
 牧師は「親しい友人のことを津軽弁でケヤグと言いますが、この言葉は『契約』から来ているのです。」その時の話しで私の記憶に残っている内容は「本当の友とは、固い約束で結ばれている人たちのこと。どんなことがあっても、見捨てない。裏切らない。それこそケヤグがもっている意味だということ。」
確かに、「ケヤグ」は聖書の「契約」と同質だと感じました。神はイスラエルの民と契約を結び、どんなことがあっても見捨てず、裏切らないと約束されたのですから。たった六年という短いの津軽での生活でしたが、この地を去る時に「俺たちはこれからもずっとケヤグだ!」と言ってくださったI牧師の言葉が今も忘れられません。
 そして注目したいのは「主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく」(3節)という表現です。
 これは決して「先祖と契約を結ばれた」という過去の事実を否定するものではありません。主なる神はノアと契約を結ばれました(創世記 9‐11章)し、アブラハムとも契約を結ばれた(創世記15‐18章)のです。これらの契約は目に見える徴として、また肉体に刻みつけられる徴を伴っていました。ノアの場合は美しい「虹」であり、アブラハムの場合はイスラエルの男子に命じられた「割礼」で、それは今日まで大切な通過儀礼として継承されています。このように契約は、いつまでもイスラエルの民の記憶に刻み付けられるものとなりました。だとすれば、申命記の著者が「民族の記憶」を否定することはあり得ないのです。
 ですから「主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではない」という意味は、むしろ、先祖との契約を単なる「過去の物語」として忘れることがあってはならないということでしょう。「主は、ホレブで我々と契約を結ばれた。そして敢えて今ここに生きている我々すべてと結ばれた」と強調しているのも、それを明確にするためです。
 過去が現在につながっていることは明らかです。「過去に目を閉ざす者は現在に対しても目を閉ざすことになる」(ヴァイツゼッカー)。 過去の重要な記憶は、絶えず現在化されなければならないことを聖書も繰り返し命じているのです。
 アジアに対する戦争責任も決しては忘れてはならない重大な経験の一つですが、日本政府はそれを忘れようとし、それを「未来志向」と呼ぶ政治家や歴史家までいます。
 私たちの教団が「建国記念の日」を「信教の自由を守る日」としたことはそれに抗し、過去の過ちをしっかりと心に刻むことによって過ちを繰り返さず、神の戒めを現在化することに他なりません。
 連日のパレスチナにおける殺戮行為が神の目にどう映っているかを真剣に考える人々がイスラエルで多くされ、かつて自分たちも同じ境遇にあったことを通して神の戒めを知ることができますように。

文:真壁 巌 牧師