日本キリスト教団

西千葉教会

復活の主による再創造

2024年04月

 

ヨハネによる福音書 20章221節〜22節

 教会での葬儀の後、火葬前の祈りをささげますが、そこでこう祈ります。「私たちは今、地上の生涯を終え、みもとへ召された〔○〇さん〕の亡骸を御手にゆだね、土を土に、灰を灰に、塵を塵に返そうとしています。」ご遺族にとってはギョッとする言葉かもしれませんが、その根拠は聖書にあります。
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2章7節)
 人という言葉は土から来ています。つまり人は土からでき、死ぬと再び土に帰っていくのです。聖書は私たちが土の塵から造られた者であることを人間の原点として宣言しています。「土に帰る」と聞くと希望がないように思われるかもしれません。しかし土も大地も、創世記1章によれば祝福されたものでした。私たちは呪われた大地ではなく、神によって祝福された大地の土から造られたのです。
 でもそれだけではありません。神が人の鼻に息を吹き入れられ、それによって人は生きる者になったということです。とても面白い光景ですが、ここには実に本質的なことが語られています。それは神こそが命の主であり、神の息に よって私たちは生きる者とされたということです。
 ところがこの神さまとの関係が壊されてしまいました。決して食べてはならないと言われていたエデンの園にある善悪の知識の実を、人は取って食べたのです。「それを食べると、目が開け、神のようになれる」(創世記3章4節)と思ったからです。この誘惑のゆえに、人類はこれまで数えきれないほどの過ちを犯してきたのではないでしょうか。その結果、人には罪と苦しみが加わり、死ぬべき存在となりました。まさに希望は断たれたかのようでした。しかしそうではなかったのです。
 今年は五月にペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えますが、ヘブライ語で「息」と「霊」「風」とは同じ言葉「ルーアッハ」で表現されます。神さまは造られた命の中で人にだけ、息を吹き入れられました。つまり本来、人は神の息を受け、呼べば応えるような霊的な存在として生かされているのです。
 まさに聖霊とは、今ここで私たちに直接働いておられる神ご自身のことであり、二千年の時を超えて今も働かれている主イエスご自身のことです。ですからもしも今ここに主イエスが共にいてくださることを信じられるとするなら、それこそが聖霊の働きなのです。そして私たちの信仰もそこから始まっているのです。
 主イエスが十字架にかかって死なれた三日目の夕方、復活の主が現れ、意気消沈している弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われました。そこから弟子たちは新しい命を受けて再出発しました。まさに復活の主イエスによる再創造と言えるでしょう。「人はこうして生きる者となって」神さまとの本来の関係が回復されたのです。この主によって希望の源は断たれませんでした。
 教会は主イエスを救い主と信じる人々の集まりです。しかしもっと正確に言えば、聖霊を受けて主イエスに召された人々の群れです。たとえ自分の意志でここへ来たと思っていたとしても、実は神さまによって導かれ、ここに教会という一つの群れを形成していただいたのです。そしてこれから先いつの時代もこの群れは神さまの息を受けて生かされてゆくのです。
 考えてみれば不思議なことですが、主イエスが呼吸された空気は今日まで連なっています。主イエスが弟子たちに向かって吹きかけられたその息は弟子たちの中に入り、弟子たちの息となりました。新しい年度を歩み始める私たちも、その息を共有しているのです。

文:真壁 巌 牧師