信仰の大小
2024年05月
イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
マタイによる福音書 14章29節〜31節
弟子たちは主イエスによって舟に乗せられ、自分たちだけでガリラヤ湖を向こう岸へと渡ることになりました。その夜、ガリラヤ湖特有の突風が吹きはじめ、舟は木の葉のように揺れ始めました。
舟は、昔から「教会」にたとえられてきました。この時の弟子たちの乗った舟はまさに、教会の姿ではないでしょうか。舟を漕ぎ出すように命じたのは間違いなくイエスさまです。しかしそこにはイエスさまは乗っていません。私たちの教会にも、目に見える形でイエスさまがおられるわけではありません。この時弟子たちの乗った舟が逆風に悩まされたように、教会も逆風に悩まされ、荒波にもまれることがあります。逆風のゆえに、前に進めなくなってしまうことがあるのです。
しかしこの箇所は、逆風と波に悩まされ、苦闘している、まさにそこに主イエスが近づかれるという証言です。夜明け前、祈りを終えられた主イエスが、湖の上を歩いて弟子たちの舟に近づいて来られたのです。それを見た弟子たちは、「幽霊だ」と言って叫びました。まさか、水の上を歩いて来る者がいようなどとは、誰も考えもしなかったのです。
しかし主イエスは、その波の逆巻く海の上を歩いて、弟子たちのほうへ近づいて来られるのです。海の真ん中でも、誰も近づくことができない場所でも、ただ主イエスだけはお出でになってくださる。波や嵐さえも、主イエスが近づくのを止めることはできないのです。そして弟子たちに声をかけられました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」いったいこの世の中の誰が、このような言葉を語ることができるのでしょうか。「わたしが来たからもう大丈夫だ」と仰るのです。
この声に応答して一番弟子を自負するペトロも海の上を歩きました。それはペトロが一瞬超能力を持った、というのではありません。ペトロが海の上を歩くことができたのは、主イエスが「来なさい」と言われたからです。その言葉で海の上を歩くことができたのです。主から「来なさい」と言われずに行っても溺れるだけです。
しかしペトロは私たちと全く同じ弱い人間です。強い風に気がついて恐ろしくなり、沈みかけたのです。やはりこれはダメな人間の象徴なのでしょうか? 違います。ペトロは「主よ、助けてください」と叫びました。叫べばよいのです。自分の足で海の上に立てなくても、叫べばよいのです。ペトロは叫んだ結果、どうなったでしょう? 主イエスがすぐに手を伸ばして、捕まえてくださいました。そして言われたのです。「信仰の薄い者(小さな信仰の者)よ、なぜ疑ったのか」と。
ここで主イエスは「信仰の薄い者よ。お前など海の中に沈んでしまえ」とは言われませんでした。すぐに手を捕まえて、「信仰の薄い者よ。だからあなたにはわたしが必要なのだ」との響きを感じます。
私たちも残念ながら信仰の薄い者です。信じようと思っても信じ切れずに、この世の荒波に怯え、沈んでしまうのではないかと恐れてしまう者です。しかし、それを私たち以上にご存じの主イエスはすぐに手を伸ばして捕まえてくださるのです。私たちも主イエスに「本当に、あなたは神の子です」と言わざるを得ない者なのです。
でもだからこそ、逆風も荒波も乗り越えて近づいて来られるまことの神、主イエス・キリストを、眼を大きく見開いて、仰ぎたいと思います。次章で娘の癒しを主に食らいつくように求めたカナンの母親に対し、主イエスは言われました。「あなたの信仰は立派(大きな信仰)だ」(15:28)と。
この大きさとは主を見つめる眼の大きさであり、母親の心底から出る喜びの大きさでしょう。
文:真壁 巌 牧師