「主の山に、主は現れる」
2024年06月
アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。
創世記 22章14節
このイサク奉献と呼ばれる物語は、神様の命令に対してアブラハムがどう応えるのかを試すための出来事でした。そして、アブラハムは最も正解に近い答えを選んだと言っても良いと思います。神様に命じられてすぐに、その言葉に従おうとしたからです。そして、正解を選んだアブラハムに対して、主が満足されたから、イサクの代わりとなる献げ物が備えられていました。だから、主から命じられたらすぐに従って、何でも神に明け渡しなさいというのが、この御言葉が教えていることなのでしょうか。もし、この時イサクをいけにえとして献げられなかったとしたら、この物語の結末はどのように変わっていたのでしょうか。私には、この御言葉は徹底して神に従順であることを求めている箇所とは思えませんでした。それは、アブラハムがたとえ命令に従えなかったとしても、イサクの命を取るような神様ではないからです。また、そのことをアブラハムもよく知っていたはずです。それは、正しい者が一〇人でもいれば、極めて罪が重い、悪い者ばかりがいる町でも滅ぼさないと、アブラハムの執り成しを受け入れてくださった神だからです。信仰の父と呼ばれるアブラハムは、信仰とはただ盲目的に何もかもを鵜呑みにして信じることではないと、ここで示そうとしたのではないでしょうか。これは、祈りを通して自分の願いを曲げることなく、御心を尋ね求めようとする姿なのです。
しかし一方で、この時アブラハムは本気で息子を屠り、いけにえとして献げようとしていたこともここで語られています。その様子をご覧になった主は「あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」と言われました。ここには信仰者としての諦めと決断が表れているように思います。私たちが心からの祈りを捧げたとしても、その祈りが聞かれないこともあります。その時には、私たちの祈りや願いよりも、神様の御心が優先されるのだと、私たちは信仰のために、そう受け止めることができるよう、主ご自身から促されるということがあるからです。どれだけ祈ってもそれが聞き入れられないのであれば、主が命じられた通りにする他ないと思わされることがあります。私たちがそのことで心の底から苦悩し、祈りながら主に従おうとする、その様子を主はご覧になりたいのです。それは、口先だけではない信仰を主が求めておられるということでもあります。
そして、これはアブラハムに対して、また私たちに対して、神の恵みの大きさを教えるための試みだったのではないかとも思うのです。アブラハムにとって息子イサクが与えられたことは、彼にとって一番の望みが叶えられた出来事でした。祈りが聞かれた時に、アブラハムは自分たちに注がれる恵みを、さらに祈り求めることをやめてしまったのではないでしょうか。もうこれだけの恵みをいただいたから十分である。これ以上、神様の恵みを求めるのは、おこがましい。そう考えたのかもしれません。
ですが、それは神様からすれば、いらない遠慮なのです。神は、ご自分の民をどこまでも愛し抜かれる方です。その愛や恵みに限界はありません。その限界をアブラハムも私たちも勝手に決めつけてしまうことはないでしょうか。その時に主は、私たちの喜びや楽しみをささげさせるという仕方で、私たちから主の恵みと憐れみを求める祈りを引き出そうとされるのです。私たちは時に、何かを失うことでその大切さに気づかされることがあります。それが信仰においては、私たちの日常における神の恵みの大きさなのです。
神の憐れみと恵みの両方に心からの信頼を示したアブラハムの信仰の先に、主はイサクの代わりに一匹の雄羊を備えてくださいました。人々は今日でもその場所を「主の山に、備えあり」と言うと、記されていました。別訳では、「主の山に、主は現れる」と訳されます。恵みと言うと、具体的な事柄や出来事を想像しますが、この御言葉はそうは教えていませんでした。私たちの必要を満たし、また私たちの思いをはるかに超える恵みを与えてくださる神ご自身が、私たちに与えられている本当の恵み、また本当の備えなのです。
文:真壁 巌 牧師