新たに生まれるために
2024年07月
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書 3章16節
ユダヤ人たちの議員(聖書協会共同訳では再び指導者)であったニコデモは夜、主イエスのもとにやって来ました。それは人目をはばかりながらも癒されたいと切望する心の渇きがあったのかもしれません。このニコデモに対して主イエスは、「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)と言われました。ニコデモは「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)と答えています。
私たちも主イエスの言葉を肉体的な生まれ変わりとして理解するなら、ニコデモと同じ答えをしたでしょう。しかし、人生に繰り返しはありませんから、そのような生まれ変わりは不可能です。ここで「新たに」と訳されている「アノーテン」というギリシャ語は、「上から」とも訳せる言葉です。つまり主イエスは「人間にはできないことでも上から神の力が働く時に、人間は新たに生まれ変わることができる」と語られたのです。
その上で「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(5節)と語られたのです。ここに「水」という洗礼を思わせる言葉が出てきますが、強調点は「霊」にあります。この「霊」を意味する「プネウマ」というギリシャ語は「風」「息」とも訳せます。ですから主イエスは霊の説明をなさるのに風の譬えをされたのです。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(8節)と。聖霊は見えない力として働きかけてきます。まさに私たちが見えない空気を呼吸して生きているように、生命は見えない神の力によって生かされているのです。つまり私たちは皆、自分の力で生まれ出てきたように考えがちですが、そうではありません。上(神)からの力によって生まれさせられた存在なのです。この力に気づかされて人は新しく生きるのです。
ニコデモが教えられたことは、人間の罪によって遮断されていた天(上)からの風口を開くために神が御子をお遣わしになったということです。その風口は人間の側から開くことはできません。だからこそこの風口を開くために、主イエスが神の側から人間の中に入って来られ、突破口を築かれたのです。
それこそが冒頭の「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠に命を得るためである」に込められている出来事です。つまり人間にはできない救いの突破口を神はご自分の独り子なる主イエス・キリストの十字架によって開かれました。人間はこの神の愛、霊、息を注がれ、新たに生かされる存在なのです。
創世記の天地創造物語によれば、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(2:7)とあります。しかし、それが今日では命の息が吹き込まれていない状態とされ、人間がただの動物としてしか見られていない悲しい現実があります。結果、人間を自分の役に立つかどうかという利用価値としてしか考えられず、不要になれば殺してしまうことさえ起こるのです。しかし決して忘れてはなりません。そのような霊的に死んでいる人間を新たに生まれさせるために主イエスはこの世に来られ、神の命と愛の力とが吹き込む風口を開いてくださったのです。
それだけではありません。主イエスは神の愛を一身に集めて、それを私たちに注がれました。それは私たちを本来の人間の姿に戻され、心を尽くして神を愛し、隣人を愛することによって神の国を形成する者とするためなのです。
文:真壁 巌 牧師