日本キリスト教団

西千葉教会

キリストはわたしたちの平和

2024年08月

 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、

エフェソの信徒への手紙 2章14節〜15節

 主イエスの十二弟子のリスト(マタイ10:1‐4)を見ると、二人だけ肩書きがあります。一人は徴税人マタイ、もう一人は熱心党のシモンです。徴税人とは、ユダヤを占領していたローマ帝国に納める税金を徴収していました。しばしばローマの権力を利して何倍もの税金を巻き上げていました。そのためユダヤ人たちは徴税人を罪人、売国奴と見ていました。
 一方、熱心党とは、ローマ帝国の支配に武力をもってでも対抗し、いつかローマの権力を追い払うと意気込んでいた過激派です。ですから熱心党の人々にとって、徴税人など絶対に許せない存在でした。 しかし主イエスは、その両者をひとつの輪の中に召されたのです。これは昔も今も常識では考えられないことです。 
 リストの最後にイスカリオテのユダが登場します。ユダは十二弟子の一人に選ばれながら、主イエスを銀貨30枚で敵対者に売り渡してしまった人です。最初は主イエスを来るべきメシア(救い主)として迎え入れましたが、だんだん自分の期待通りのメシアではないということが見えてくると失望し、次第に期待が憎しみに変わったのでしょう。
 なぜそんなユダが十二弟子に加えられたのでしょうか。主イエスは後にこうなることを見抜くことができなかったのでしょうか。だとすれば主イエスの重大な失敗ということになります。あるいはそうなるかも知れないと、うすうす感じつつ、いずれ自分が訓練してやろうと思って弟子にしたのでしょうか。であれば、やはり主イエスは弟子の教育に失敗したと言わなければなりません。
しかし私は、主イエスはこうなることをすべて見越した上で、ユダを弟子の一人に加えられたのだと思います。つまり、ユダのような者も、主の弟子として行動を共にし、弟子たちの輪の中に加えられることが、御心であったのです。特に、主イエスの地上における最後の晩餐(聖餐式)に、ユダも加えられていることは大変重要です。
 またヨハネ福音書を見ると、洗足(主イエスが弟子たちの前にひざまずいて弟子たちの足をお洗いになった)その場にもユダは加わっているのです。主イエスはユダの足も洗われたのです。このこともとても大事だと思います。ユダの物語を心に留める時に私たちは、私たち自身の最も暗い部分を見せ付けられるような思いがしますが、その暗闇が濃ければ濃いほど、そこにあらわれる恵みの光も大きいのです。
 主イエスは、このユダのためにも身をかがめて足を洗い、このユダのためにもパンを裂き、このユダのためにもぶどう酒を用意されたのです。もっと突っ込んで言えば、このユダのためにも「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈られ、このユダのためにも死なれました。だからこそ、私も受け入れられている、と確信することができるのです。私も洩れていない。私も確かに、その輪の中に入れていただけていると信じられるのです。
 この世の理屈で言えば、こんな集団で成功するはずありません。
しかしまことの平和を築くため、主イエスは徴税人と熱心党員の二人だけでなく、自分を売り渡すユダをも選ばれたのです。最初から爆弾を抱え込むような決意をもって弟子たちを召されたという事実に驚かされますが、そこに主イエスの御心がありました。
 主イエスは、まずそんな弟子たちに平和を求められ、更にその弟子たちのありのままの姿を通して和解と平和の福音を示されました。対立の世に生きる私たちもそこに招かれているのです。その招きには今も二つのものを一つにする主の祈りが込められています。

文:真壁 巌 牧師