日本キリスト教団

西千葉教会

「主の恵みを求める」

2024年09月

 万軍の主はこう言われる。その日、あらゆる言葉の国々の中から、十人の男が一人のユダの人の裾をつかんで言う。『あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ。』」

ゼカリヤ書 8章23節

 私たちが人々の前で証しする備えとして大切なことは、日々神さまから与えられている恵みを自覚することです。恵みを思い起こすということを繰り返す中で、私たちが日常に見出せる恵みが増えていきます。恵みに満たされた幸せそうな姿を見て、人々が引き寄せられてくるというのは当然のことです。私たちは毎日、主の恵みを求める祈りをささげています。しかし、それは私たち自身のためだけに祈っているのではありません。私たちの姿を見て、主の恵みに、また主ご自身に近づこうとする人々が起こされるように、神さまの恵みを祈り求めるのです。ゼカリヤ書で言われているように、そうした幸せな姿を見て、私たちの裾をつかむ人が多く起こされてほしいと願います。ここでは十人の男が一人のユダの人の裾をつかんだとあります。この十という数字は、本当に十人いたというのではなく、数え切れないほど多くの、という意味で使われている数字です。「あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ。」そう言って引き寄せられてきた人々で、エルサレムがいっぱいになる、その日がいずれ来るのだと、主ご自身がそのことを語られました。ですから、私たちは自分のためにも、そして神さまの恵みに与りたいと願っている人たちのために、もっと神さまの恵みを祈り求めてもいいのです。私たちが恵みで満たされている姿、幸せな姿というのは一つだけではありません。その姿のうちのどれか一つでも見て、私たちと共におられる主に出会いたいと思ってもらえる、それが私たちにできる伝道です。私たちが神さまからの恵みを受け、幸せを感じる出来事はたくさんありますが、その中でも特に、神さまの恵みを表すことのできる姿があると言われています。そのことがイザヤ書2章、そして11章に記されている内容です。まず2章3節以下です。「多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と。主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民が戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」続けて11章9節以下です。「わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海で覆っているように大地は主を知る知識で満たされている。その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」これらのイザヤ書の御言葉は、どちらもゼカリヤ書の御言葉に響き合う箇所として読まれる聖句でもあります。二つの箇所で言われていることは、多くの民が力を捨てて主の平和を求めること、そして、国々がその平和を求めて集うということでした。それが、主の民に現される最も輝かしい幸いであるということです。主の平和こそが、人々を引きつけてやまない、神さまの恵みなのです。私たちの間に主の平和が実現していく時、多くの人がこの平和を求めて、主の御前に集められていきます。すべての人が、イエス・キリストのもとに引き寄せられていきますように。そのための執り成しと、神の恵みを引き出す祈り手として、また平和の使者として私たちは用いられるのです。
 九月の最初の主日を、教会では振起日と呼びます。私たちが主の弟子として、神さまと教会に仕えていこうという思いを新たにする日です。それは、恵みを数え直し、また心に留め直す日でもあると思います。神さまから与えられている恵みに生かされ、また恵みを求めて歩んでいこうと思わされます。その姿が何よりの伝道になるのだと主は言われました。そして、私たちに注がれている恵みの果実として、主の平和を実現していく者でありたいと願います。

文:菊地信行伝道師