信仰が人を生かす時
2024年11月
役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。 イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。
ヨハネによる福音書 4章49節〜50節
舞台はガリラヤのカナです。主イエスがそこに滞在しておられた時、カファルナウムから一人の王の役人がわざわざ訪ねてきました。カファルナウムからカナまでは直線距離で30キロ。その道のりを主イエスに会いにやってきました。彼の息子が死にかけるほどの病気であったからです。「息子をいやしてください。死にかかっているのです」と訴えました。主イエスは、「あなたがたはしるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(48)と、やや冷たい反応をされましたが、彼はあきらめません。「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と嘆願します。
一言、冷たい言葉をかけられたからと言って、「はいそうですか」というわけにはいかない。あるいは「俺を一体誰だと思っているのだ。王の役人だぞ。そんな口のきき方があるか」とか「無理矢理にでもひっぱってやる」と言うわけにもいかない。とにかく「お願いします。あなただけが頼りです」と頼み込むのです。それに呼応するように主イエスはこう言われました。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(50)と。
この言葉は、王の役人を戸惑わせたことでしょう。彼の願いは、主イエスを連れて帰り、息子を癒やしていただくことでした。それが拒否されたのです。しかし全く拒否されたのではなくて、「あなたの息子は生きる」との約束を受けました。つまり彼はこの時、主イエスの救いの宣言だけを聞いて、その言葉を信じるかどうかが問われたのです。彼は「いやあなたをお連れするまでは信用するわけにはいきません」と言うこともできたはずです。しかし彼は、この時見ないで信じる信仰へと促されていきました。彼は、「イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」のです。
ヘブライ人への手紙11章1節に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあります。彼はこの時、まさに「望んでいる事柄を確信し」、まだ見ていない「事実を確認し」て、帰って行ったのです。そして帰って行く途中で、息子の病気がよくなったことを知らされました。そしてその時刻を尋ねると、主イエスが「あなたの息子は生きる」と宣言されたのと同じ時刻でありました。
この父親はしるしを見て信じたのではなくて、見ないまま、言葉を聞いて信じた。その結果として、しるしが与えられたということです。カナの婚礼の時もそうでした。母マリアは、主イエスがまだ何もなされていない時、召し使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(2:5)と言いました。見ないで信じたのです。結果、水がぶどう酒に変えられるしるしが与えられたのです。
さて、王の役人の息子は回復しましたが、当然いつかは死んだでしょう。王の役人も死んでいきました。そうだとすれば、この時の癒しは一時的なものであったと言えます。癒しとは多かれ少なかれ、そういうものです。いずれは誰もが死ぬのです。ですから最も大事なことは、そのような奇跡、しるし、癒しそのものではないと言わなければなりません。主イエスがこの時、「あなたの息子は生きる」と宣言なさった。「あなたの息子は治る」とは言われないで、「生きている」(聖書協会共同訳)と言われたのは、息子の癒しのことだけでなく、主イエスを信じる者は死によっても損なわれることのない、永遠の命を与えられていることが明確に示されています。
この出来事の最後には「そして、彼もその家族もこぞって信じた」(53)と記されています。結果として家族全体に主イエスを信じる信仰の輪が広がったことの方が、どんな奇跡よりも遥かに深い意味をもつのではないでしょうか。
文:真壁 巌 牧師