人を生かす信仰
2025年2月
それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。
ガラテヤの信徒への手紙 3章21節〜22節
ガラテヤ書では信仰と似て非なるものとして律法が出てきました。まず、律法は神の約束に反するものではないと言われています。主イエスが教えられたように、律法は軽んじられるべきではありません。しかし、律法を守ることが一番大切ではないことを繰り返し語っています。そのため、パウロによると、律法は養育係だと言われていました。そして、信仰が与えられた今、私たちはもう律法のもとにはいないというのです。それでは、私たちはこれから信仰と律法をどのように理解すれば良いのでしょうか。その手がかりとなる言葉が22節に記されています。信仰と律法の二つに違いがあっても、私たちが罪人であるという事実は変わらないのだとパウロは語ります。
そして、この現実に向き合うとする時に、律法と信仰はそれぞれ別の方向性を与えます。罪人である私たちに律法を重ねると、律法を守れない、罪と誘惑に弱い自分を思い知らされることになります。律法に忠実であろうとする限り、私たちは自分のできない部分をずっと見続けなければなりません。それは、いくら精神的に丈夫な人でも苦しいものです。その意味で、律法は時として私たちから、生きる活力を奪いかねないものでもあります。
ですが、信仰はそうではありません。私たちは罪人であるからこそ、信仰によって救われるという、何物にも代え難い喜びを知るようにされているのです。律法を守ろうと一生懸命になろうとしたことのある人なら、誰でも知っていると思います。神の言葉のすべてにいつも忠実であることの難しさは、最初から無理だと諦めてしまうほどです。ですが、主が定めた掟ですから、できないと分かっていても簡単に開き直ることもできません。結局、できない自分に落ち込んで、このままでいいのかと葛藤しながら生きていくしかなくなるのです。教会に来ることに疲れを覚えてしまう人の多くは、ここに原因があるのかもしれません。その気持ちも、諦めも疲れも、よく分かります。ですが、だからこそ、私たちは信仰という計り知れない恵みをいただいているのです。
律法が「できない自分」に目を向けさせるなら、信仰は「できなくても赦してくださる神さま」に目を向けさせます。罪人である私たちは、いくら自分自身で解決の糸口や手がかりを見つけようとしても、見つけることはできません。ですから、私たちは罪とはまったく無関係であるイエス・キリストを仰ぎ見るのです。主と出会い、その深い憐れみによって罪が赦されていることを悟る時、私たちは「できない自分でも良い」ことを知ります。できない自分を主だけでなく、自分自身でも認められるようにされるのです。これが主の赦しを受け入れるということです。信仰はこの赦しを通して現される神の愛と憐れみを私たちに示し続けています。 そして、できない自分を受け入れられた時、信仰は私たちにもう一つの希望を見せます。それは「こんな私でもできることがある」という希望です。神の赦しに押し出されて、自分にできることを探し求めるようになるのです。この希望が、日々の祈りや奉仕につながっていきます。主の赦しという大きな恵みに応えようと思うと、私たちは神さまへの恩返しを考えたくなります。ですが、聖書は恩返しとは別のことを教えています。それが「行って、あなたも同じようにしなさい」という主イエスの言葉です。自分が赦されたように、あなたがたも赦しなさい。あなたが信仰によって律法から解放されたように、人々を律法から解き放ちなさいと、主は私たちに告げられています。罪人である私でもこんなに満ち足りている。そう生きられるようにされている信仰を人々に示すことが、私たちにできる神さまへの恩返しなのです。
文:菊地信行 副牧師