十字架につけろ!
2025年3月
ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。 しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。
ルカによる福音書 23章20節〜21節
十字架はローマの処刑方法です。ピラトの決定による処刑ですから、十字架は当然でしょうが、主イエスがこの十字架にかかって殺されるということは、聖書の文脈から見れば単なる処刑ということ以上に意味のあることだったのです。申命記21章23節には「木にかけられた死体は、神に呪われたものだ」と記されています。「十字架につけろ」との叫びは、主イエスを神に捨てられ、神に呪われた者とせよという叫びでもありました。
主イエスが神の呪いを受ける者になることにより何が生じたのか。聖書はバラバという死刑囚が釈放されたことを告げます。本来、神に捨てられ、神の呪いを受けるはずのバラバが助かり、主イエスが神の呪いを受ける者となりました。
バラバについては、「暴動と殺人のかどで投獄されていた」と言われています。ユダヤ独立を求める熱心党の指導者の一人ではなかったかとも言われていますが、多くの学者は、このバラバの姿を想像たくましく描いてみせるのです。革命家であったとか、単なる強盗であったとか。しかし、彼がどのような人であったのかは、それほど重要ではありません。大切なことは、主イエスが十字架につけられることになり、彼は釈放されたということです。ここに主イエスの十字架の意味が隠されています。

本来処刑されるべきであった者が赦され、主イエスが処刑されることになりました。このバラバの身の上に起きたことこそ、私たちの上に起きたことなのです。本来、その罪のゆえに神に裁かれ、捨てられて当然の私たちが、主イエスの十字架によって赦され、生かされ、神の子とされ、永遠の命へと招かれたのです。
ユダヤ教の指導者たちのねたみ、扇動された民衆、暴動を恐れるピラト、それらが組み合わされ、主イエスは十字架にかけられることになりました。人間の根底にある罪がここに露呈しているのです。それによって主イエスは十字架につけられました。そこには人が理性的に判断して、納得出来るようなものはなかったかもしれません。
しかし、神の御心における必然がありました。主イエスの十字架はすべての人間の罪を、神の御子イエスが私たちに代わって自らの上に担うという出来事でした。ですから主イエスの十字架は、人間の罪の結果として引き起こされなければならなかったのです。人間の罪によって引き起こされた出来事であるゆえに、その罪のすべての裁きを引き受けることになったのです。私たちはここで、主イエスを十字架につけるために働いた人々を責めることは出来ません。なぜなら、そこには私たちの罪と私たちの弱さが明らかに示されているからです。
どうして主イエスが十字架につけられることになったのでしょう。それが分からないのは、主イエスの十字架への歩みを、遠い昔に起きた自分には直接関係のない出来事として、外側から見ているからではないかと思います。つまり、主イエスの十字架への歩みの中に私たち自身が入っていなければ、理解することはできないのです。
「十字架につけろ」と叫んだ人々の中に、この私もいるのです。自分の立場や常識を守るために主イエスを殺そうとしたユダヤの指導者たちと自分を重ねるのです。自分を守るため、民衆の前で自分の判断を曲げたピラトと私を重ねるのです。そんな私の前に、何も語らず、黙って十字架への道を歩まれる主イエスがおられる。この主イエスを十字架へと追いやった人々の中に自分を見出し、この私の前に十字架への歩みをなされている主イエスがおられることを知らされる時、この方の前にひざまずかざるを得なくなります。
その上で、主よ、憐れんでください。この私の罪を、弱さを、身勝手さを、愚かさを赦してください。そう祈ることしかできません。主イエスは今も、私たちがそう祈るのを待っておられるはずです。
「主よ、自分のなかの敵だけを
おそれるものとしてください」。
文:真壁 巌 牧師