日本キリスト教団

西千葉教会

復活の主はすぐそばに

2025年5月

 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。

ヨハネによる福音書 21章4節〜5節

 数年前、ある信徒から「牧師先生なら信仰が揺らぐことはないでしょうね」と、告げられたことがあります。その方(婦人)は自分が洗礼を受けた頃を振り返り、次第に希薄になっていく信仰生活を溜め息交じりに口にしたのです。でもそこにはまた、連れ戻してほしいという訴えのようなものもあったと思います。
 その時に牧師である私の頭に浮かんだのは、冒頭聖句の場面、ガリラヤ湖畔での出来事でした。既に復活の主に出会い、大喜びしたはずのペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、他の弟子たちも一緒に行きました。この時、弟子たちの心を支配していたのは、喜びではなく空しさでした。つまり本当に漁がしたかったのでなく、他にすることがなかっただけです。だから何の収穫もなかったのでしょう。「子たちよ、何か食べる物があるか」という主イエスの問いかけに、「ありません」と答えるしかなかったのです。
 しかし私は、空しい漁をしているペトロたちを笑えません。彼らと同じく信仰を告白して主イエスに従い、それこそ網を捨てるような決心をして牧師になったにもかかわらず、正直その働きに空しさを感じる時があるからです。思い通りにならない時、不平不満を口にします。その結果、本来喜びと平安に包まれるはずの信仰生活も空しくなります。牧師でも揺らぐのです。
 その原因は何かと問われれば、現に生きて働いておられる主イエスを一時見失ってしまうからでしょう。ただ主イエスを見失った信仰生活でも、主イエスがおられない信仰生活ではありません。「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが弟子たちはそれがイエスだとは分からなかった」だけなのです。空しさの中で、夜通し網を打つ弟子たちのすぐそばに復活の主が既に立っておられました。弟子たちにはその事実が分からなくても、現に主は見守 っておられたのです。
 主イエスは言われました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(21:6)と。
 これと同じ事が以前にもありました。そう、主イエスと最初に出会った時です。夜通し漁をして何もとれなかったペトロに、主イエスは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(ルカ5:4)と言われたのです。ペトロが網を降ろすと、おびただしい魚で網が破れそうになりました。ペトロは驚き、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(同8)と言いました。しかし主イエスは、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(同10)と言われたのです。そしてこの時も、網を打つと、魚があまりに多くてもはや網を引き上げることができなかったのです。

 
シャクヤク
花言葉「清らかな愛」「高貴」

ヨハネ福音書は、主イエスが湖から上がって来る弟子たちのため炭火をおこし、パンを用意してくださっていたと記しています。
 主イエスは自ら整えられた食事を前にして、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(21:12)と言われました。そしてパンを取り、弟子たちに与えられたのです。
 一日を生きるために必要な糧を主は弟子たちのために備えてくださいました。人生を生きるためのいのちの糧を、主イエスはいつも備えてくださるのです。何も取れない夜であっても、主ご自身が私たちのために、まず大切な朝の食事を備えてくださるのです。
 信仰によって生きる時、私たちの人生は決して空しさで終わることはないという事実を、はっきり心に刻みましょう。どんな境遇に遭っても、私たちは決して一人ではありません。私たちはいつも主と共に生かされ、主によって結ばれた仲間たちと共に生きるのです。
 今も復活の主イエスが見守っておられる恵みを知らされる時、私たちの空しい漁(生活)も大漁とされるはずです。

文:真壁 巌 牧師