主の呼びかけ
2025年06月
主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」
サムエル記上 3章10節
神は、私たちの名を呼んでいます。今日の聖書箇所においてサムエルは、三度も名前を呼ばれます。そして。彼は「はい。ここにおります」と答えます。原文では「ヒネニー」と言う言葉で書かれています。「ヒネー」とは「見よ」と言う意味です。そして、接尾辞に「私」を意味する「ニー」を付けて「ヒネニー」になります。ですから直訳すると「私を見よ」と言う意味です。
サムエルは、神の呼びかけに対して「ヒネニー」「私を見よ」と返事をしています。これは、私たちの「存在」に語りかけるように思います。私たちは良くないことをしていれば、「私を見よ」とは、言えません。「私を見よ」という時、私たちはまっさらになって神の前に立つのです。何も隠し事をしていません。ただ、全存在をかけて神の前に立つのです。
少年サムエルは、まだ神の声を聞いたことがありません。ですから、三度の呼びかけに対して、そのどれもが主人である「エリ」に対して答えます。三度、人間の主人であるエリに対して、この「ヒネニー」が用いられています。
神は、私たちの名前を呼んでいます。サムエルが、エリでなく本当に名を呼んでおられる神様の前に立った時、このように答えます。
「話してください。あなたの僕は聞いております」と答えます。ヘブライ語からそのまま英語に置き換えれば「Speak. For hears your servant.」です。「あなたの」です。祭司エリではなく、また、惑わしている霊でもなく、主であられる「神」が「主」が語りかけています。
まさしく、ここでは「聖四文字」それは神固有の名前が挙げられています。みだりに唱えてはいけないので「アドナイ(主)」と読まれています。真の神であられる名を持った神が語りかけているのです。
その名を持った神である「あなたの」僕。「アドナイの」僕である私に語りかけて下さいと言うのです。
少し釈義的かもしれません。言葉が難しいと思うかもしれません。私が最も伝えたいのは、「主が」私たちの具体的な「名前」を呼び、用いたいと思っていて下さることです。

私たちは、一体、誰の声を聞いているのでしょうか? 教会での説教は誰が語り、誰が聞いているのでしょうか? 教会では主の福音が語られています。福音が聞かれています。主の福音を中心にして私たちの教会生活があります。
しかし、現実には私たちは福音以外のことを気にしてしまいます。多くの出来事の中で罪人であることを思い知らされます。
私たちは、罪人である。それもまた現実であり、私たちはそこから祈りの生活に入ります。打ち砕かれて祈る。自分のことだけでなく教会のために祈る。なかなかできないからこそ祈るのです。
11節でサムエルを召した主は、このように語ります。「見よ、わたしはイスラエルに一つのことを行う」。歴史の主のご計画が進んでいます。この後、成長した祭司サムエルがたどった道は、決して安定したものではありませんでした。サウル王をたて失敗し、ダビデ王をたて、彼の役割は終わります。神に名を呼ばれた者は、主の御用のために働いたのです。
しかし、私たちは、サムエルのようにはいきません。一つの意見に対して「でも」とか「しかし」とか「あるいは」と答えてしまいます。
だからこそ、祈るのです。私もまた神の呼びかけに従い「ヒネニー」と神の前で跪き「どうぞお語り下さい」と言って御言葉を拝したいと思っています。
どうか「あなたの僕」が聞いておりますのでお語り下さいますように。
そう、私たちは祈るのです。
主にこそ栄光あれ。ハレルヤ。
文:蓮沼 明伝道師