日本キリスト教団

西千葉教会

神が命じられること

2025年8月

 畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。 オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。 ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。 あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。

申命記 24章19節〜22節

 申命記24章には「人道上の規定」という小見出しが付いています。しかし今の社会で、この教えは支持されるでしょうか?貧者、弱者がいて当たり前、格差(差別)があって当たり前、自分のものを自分がしたいようにするのも当たり前という社会において。
 「寄留者、孤児、寡婦」とは、当時のイスラエル社会だけでなくいつの世にあっても最も弱い立場の人々を指していますが、忘れてならないのは、信仰の父アブラハムも元は寄留者でした。 
 「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました……」(26:5)。
 そんなアブラハムを主なる神は敢えてお選びになったのです。
聖書の「平和」とは、ただ戦争がない状態を指していません。個々の存在(人権)が踏みにじられることなく、大切にされているかが問われています。それゆえ神は申命記において命じられるのです。「一束畑に忘れても取りに戻ってはならない。」「あとで枝をくまなく捜してはならない。」「あとで摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい」。その上で神は、「あなたはエジプトの地で奴隷であったことを思い 起こしなさい」(冒頭句)と命じられるのです。

つゆくさ
花言葉「尊敬」「懐かしい関係」

 ここで神は、ただ単に弱者が解放されることを命じられているのではありません。本来、全てのものは生命を含め、神から与えられているものであるにもかかわらず、それを忘れています。その誤りに気づき、神の良しとされる秩序に立ち帰ること、欲望の奴隷となっている自らを解放することが求められています。
 E・ブルンナーという神学者が日本の教会の特徴を次のように表現しました。「日本の教会には三つの中心がある。知識中心。牧師中心。自己中心である」と。大変耳の痛い厳しい指摘ですが、間違っていないように思われます。 
 特にこの世の価値基準にどっぷり浸り、他者への配慮が鈍くなっている面があることに気づかされます。つまり「自分のものを自分がしたいようにするのは当たり前」、「まして自分の努力によってもたらされた実りを好きなように使うのは当然」、「貧しい人には同情するが、自分との関わりによって判断する」という自己中心的な面があるということです。
 主イエスは「善いサマリア人」の譬えを語られ、自己中心からの解放を求められました。M・L・キング牧師がこの箇所からした説教で、とても鋭い人間分析をしています。「祭司、レビ人が傷ついた人を助けなかった理由は、この人を助けたら、自分がどうなるかを考えたからだ。そしてサマリア人が助けた理由は、この人を助けなかったら、この人がどうなるかを考えたからだ。」
 この洞察こそ、まことの平和とは何かを見事に指摘しています。私たち現代人にとって、犯した罪が指摘されるのならまだしも、しなかったことまで問題視されたら納得できるでしょうか。しかし神はそこを問われる方なのです。
なぜでしょうか?先述した通り、本来、全てのものは生命を含め、神から与えられているものだからです。
 まさに申命記において繰り返しイスラエルの民に命じられた神は、今もしっかりとこの世を御覧になり、そこに生きる私たちに命じておられるはずです。「今日、あなたがそこで生かされていること、これからも変わらぬ愛を注がれて生かされてゆくことを心に留めなさい」と。
 その通りです。「この世はみな、神の世界」(讃美歌21 361番)
であることを心に留め直しつつ、
「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10:37)との呼びかけに応じる者として歩みましょう。

文:真壁 巌 牧師