日本キリスト教団

西千葉教会

勇ましさでも速さでもなく

2025年09月

 主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく/人の足の速さを望まれるのでもない。 主が望まれるのは主を畏れる人/主の慈しみを待ち望む人。

詩編 147編10節〜11節

 日本の社会一般には、キリスト教に限らず、「宗教というものは自らを高め、人格を磨き、人間としての力を向上させるためのもの」というイメージがあるようです。一心に信じて一生懸命に修行や努力を積むことで、空中に浮かぶとか病気が治るなどといった奇跡は別として、何かしら人並み以上に価値ある人間となっていくような期待があります。 
 逆に、何年も信仰生活を送っていても、とりたてて人よりもすぐれた評価がなされないと、「私は信仰が浅くて」と落ち込んだり、あるいはそういう人のことを「あれでも信仰があるの?」と怪しんだりします。
 ともすると、キリスト教に基づく教育施設、あるいは教会、教会学校などでさえ、キリスト教信仰を深めることと、すぐれた人間として高い評価を得ることが、ストレートに結びついてしまっていることがあるように思います。「イエスさまを信じる人は、心が広く、豊かな人」、「神さまを信じる子どもはやさしく、元気で、個性と能力を活き活き発揮できる」、「信仰をもっている人はどこか違ってすばらしい」等々・・・。
 しかし本来、信仰とはすぐれた人になるためのものなのでしょうか?あるいは、すぐれた人こそが信仰深い人なのでしょうか? 神さまはそのようなすぐれた人を、信仰深い者として喜んでくださるのでしょうか?

マリーゴールド「マリアの黄金の花」
花言葉オレンジ色が「健康」、黄色は「希望」

 詩編147編は様々な形で神さまをほめたたえ歌っています。主をほめたたえるべき理由として、一つには神が自然を創造し支配していることを挙げています(4節、8~9節)。そしてもう一つは、人間をかえりみてくださる神の憐れみと慈しみ、愛を指摘して、「感謝の献げ物をささげて主に歌え」、「わたしたちの神にほめ歌を歌え」と呼びかけているのです。
 ここで、神がかえりみてくださる人として具体的に挙げられているのは、「イスラエルの追いやられた人々」(2節)、「打ち砕かれた心の人々」(3節)、「貧しい人々」(6節)なのです。紀元前六世紀、イスラエルの人々は強国バビロニアにさんざん打ち破られ、都エルサレムは陥落してしまい、長い間の信仰の中心であった神殿も失われてしまいました。  
 おもだった人々は遠くバビロンへ連れ去られ、かろうじて生き残った人々も、明日をも知れない貧しさの中に投げ出されました。力も自信も財産も希望も無くし、ぼろぼろに打ち砕かれてしまった人々は、どこにも拠り所を見い出せない存在になり果ててしまったのです。
 しかし、主が喜び、望むのは、人がすぐれた力を発揮することではありませんでした。そうではなく、このような無力な人々、自分ではもはやどうすることもできずにただ神に寄り頼むしかない人々、主の慈しみ以外に希望を持つことのできない人々、主の憐れみを待つほかない人々を神は望み、喜ばれるのだと、この詩人は歌っているのです。この神こそ、私たちのような敗残の貧しい者、力を失って何も誇るものを持たないみじめな私たちの神なのだと言っているのです。
 2001年夏に初めて聴いた「みんなで輝く日が来る―アイオナ共同体賛美歌集―」のCDが教団出版局から出され、これまで豊かな励ましと信仰の養いを受けてきました。その中に「主に向かって歌おう!」という賛美歌が収められています。
(答唱)
主に向かって歌おう!
主をほめ賛美しよう!
喜びの声をあげ、
歌おう、主のために!
(4節の歌詞)
 勇ましさ、速さ、主は望まれず、
 主を畏れ愛す人を喜ばれる。

 もう24年前になりますが、今でもつい口ずさんでしまいます。皆さんも聴いてみてください!

文:真壁 巌 牧師