七つの一つ
2025年10月
体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、 すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
エフェソの信徒への手紙 4章4節〜6節
パウロは、ここで「七つの一つ」という言葉によって語りかけています。
この短い言葉の中でキリスト教をキリスト教とする最も重大な「三位一体」について語られています。
4節では「体は一つ、霊は一つ、一つの希望」と語られています。これは、聖霊が教会という単一の「体」を形成し、「霊」によって保ち、それは「希望」を与えていることを示します。 5節では「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」というように、御子イエス・キリストが私たちを結びつけて下さいます。そして、救いの根拠である「信仰」に、信仰告白をして与る「洗礼」を示しています。 6節では「神は唯一である」と語られています。神は全てのものを支配し、働きかけ、その内にもおられる。私たちが全て知ることのできない神秘的な性質を示しています。
4節は、聖霊を。5節はイエス・キリストを。6節は父なる神について語られています。
三位一体は、難しい教理です。「区別するけれども分たれず」というように、この短い御言葉から区別を示して、かつ、分離せずに表現しています。神は唯一であって、御子イエス・キリストと聖霊によって、救いを完成されています。

花言葉は「雄弁」「愛嬌」
「七つの一つ」とは、それぞれがとても重要なものであります。全体を見ると特に5節の「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」というのは大きなものであります。振り返って私たち洗礼の時に抱いていた信仰を忘れていないか? 主イエス・キリストがして下さったことを忘れてはいないか? 短い言葉の中で私たちの信仰が、その「一つ」から逸れていないか、考えさせる御言葉であります。
教会では、洗礼を受ける前の「古い人」とイエス・キリストを信じて洗礼に与った後の「新しい人」という考え方があります。まるで、それは主に教えを請うたニコデモの議論であります。(ヨハネ3章)
パウロの時代のエフェソという地域では、雑多な宗教があり、その中で福音という真理を語るには少なからず困難がありました。しかし、パウロたちは明確に自分たちの信仰の形を持っていました。それが、福音書であり手紙であるのです。パウロが語る「七つの一つ」とは、それが基準であることを示します。それは「神」は「唯一」であるということ。そして、イエス・キリストは「お一人」であり、イエス様への「信仰」は一つであり、それ故に「洗礼」も一つだと言います。
私たちは、洗礼によって「新しい人」になっているのです。
つまり、私たちは「洗礼」というサクラメントの前と後では、全く違う人に造り替えられているのです。そのことをパウロは、あなたの「体」は一つであり、「霊」もまた一つであり、「希望」もまた一つであるというのです。
私たちの年間聖句は「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成されるきずなです」(コロサイ3:14)と定められています。
私たちは、積極的に「愛」を身につけることを祈っています。それは「古い人」が「愛」を身につけるのではないのです。私たちが洗礼によって「新しい人」になったことによって、そこになおかつ「愛」を身につけるのです。
私たちもまた「洗礼」について考え「信仰」について考え、一度限りしかないこの人生をどのように捉え、また、復活という「希望」を持ちながら一日一日を大切なものとして歩んでまいりたいと思っています。
ハレルヤ
文:蓮沼明伝道師