約束された確かな希望
2025年11月
死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」
マルコによる福音書 12章26節〜27節
私たちの想像力は、どうしても目に見えるものを元にして考えてしまうという限界を持っています。復活という出来事も私たちの思いをはるかに超えていると言えるでしょう。だからこそ、主イエスはサドカイ派が犯した過ちを繰り返さないよう教えられたことを踏まえたいと思います。主イエスの復活と切り離して復活を考える時、どうしてもサドカイ派と同じ過ちを犯してしまうことになるからです。
サドカイ派の人々は主イエスに問いました。「七人の兄弟がいて、長男が後継ぎを残さず死に、律法に従って次男が自分の妻にしたが、長男同様に死んだ。三男以降も次々と兄嫁を妻にしましたが、みな後継ぎを残さずに死に、最後にこの妻も死んた。もし復活があるとするなら、この女は誰の妻になるのか」というものでした。
主イエスは復活の根拠として、サドカイ派が誤りなき神の言葉として重んじていたトーラー(律法)の中の出エジプト記三章の言葉を引用されました。モーセと神さまが最初に出会った場面です。神さまは御自身を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われました。もし、死んですべてが終わりなら、アブラハムもイサクもヤコブもモーセと神さまが出会った時から七〇〇年も前の人ですから、とっくに死んでいるわけです。しかし彼らが死んでもう滅んでしまったのなら、神さまがその死んだ人の名をもって御自身を紹介するということはあり得ません。なぜなら、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」(27節)と言われているからです。神はいつでも「死んだ者の神ではなく、生きている者の神」なのです。
そうでなければ、サドカイ派も困ることになります。サドカイ派の人々は現実主義ですから、今生きている自分たちにとっての神でなければ、信仰は何の意味もない。そう考えていた人たちです。ですから、この主イエスの「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」という言葉には納得するしかありません。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と神さまが御自身を指して言われた時、アブラハムもイサクもヤコブも今なお生きている存在ではないかと主イエスは教えられたのです。
花言葉は「陽気」「快い楽しさ」
確かに族長である彼らは大昔に死んでいます。しかし、死んでもなお生きている。これは、永遠に生きておられる神さまと契約を結んだ者は、肉体の死を経験しても永遠である神さまとの関係が失われることなく、神さまの御許に生き続けるということでもあります。そして、その神さまの御許にある命が復活という事実によって、その時に至れば現れるということなのです。
アブラハム、イサク、ヤコブの神は、この私の神となってくださいました。そして私たちを「わが子よ」と呼んでくださり、私たちも神さまを「父よ」と呼ぶことが許されています。この交わりは死において終わるどころか、復活において完成されるものなのです。
私たちは例外なくやがて死にます。しかしそれで終わりではなく、復活するのです。それは単に肉体が蘇生するということではありません。私たちに先立って復活された主イエスに似た者として霊の体によみがえるのであり、それによって救いが完成し、神さまとの完全な交わりが与えられ、すべての民に備えられている神の国で生きることになるのです。
それが主イエス・キリストの十字架と復活によって私たちに与えられている救いの約束であり、確かな希望です。ご一緒にこの事実を確認しながら歩みましょう。すでにこの世を去られた私たちの愛する家族や教友は、この希望を指し示す復活の証人です。
文:真壁 巌 牧師