日本キリスト教団

西千葉教会

2026年 年間主題聖句

2026年01月

 命あるかぎり/恵みと慈しみが私を追う。/私は主の家に住もう/日の続くかぎり。

詩編 23編6節

 2026年の主題聖句として、表題の聖句が示されました。アドベントから主日礼拝で聖書協会共同訳を読むことになりましたので、今号からその訳を使用いたします。
 示された聖句は詩編23編6節ですが、まず全体の内容を踏まえた上で、6節が発信しているメッセージに聞いてまいりましょう。
「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。主は私を緑の野に伏させ、憩いの汀に伴われる。主は私の魂を生き返らせ、御名にふさわしく、正しい道へと導かれる。」
 初めの1‐3節で、羊飼いなる主は、私たちを緑の牧場に伏させ、豊かな水辺に伴って魂を生き返らせてくださるまことの飼い主です。その事実は十字架の死を前にした主イエスの言葉に示されています。「私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:10‐11)
 4節には、「あなたは私と共におられ」とありますが、主が一緒におられるのは「死の陰の谷」です。そこは人間が息をひきとる瞬間、どんなに願い、愛していても一緒にいることはできないその場に主が共にいてくださるというのです。だから「私は災いを恐れない」のです。飼い主である主が私のために闘ってくださるという信頼があるからです。「あなたの鞭と杖」も羊を打つ道具ではありません。羊を襲ってくる獣と闘い、追い払うための道具です。
 5節には、「私を苦しめる者の前で あなたは私に食卓を整えてくださる。私の頭に油を注ぎ 私の杯を満たされる」とありますが、ある人は「頭に油を注ぐ」のは傷ついた羊を癒す行為でもあり、「杯」も薬の入った杯だとします。主は「私を苦しめる者の前で」、「食卓を整えられ」、つまり毛皮のようなムシロを広げて、自分の危険も顧みずに癒してくださるまことの飼い主(牧者)だというのです。
 そしてこの詩人の締めくくりの言葉が、冒頭聖句にて語られます。新共同訳聖書で、この節の後半は「主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう」となっていました。それが再びその前の口語訳「わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」に戻ったように思います。ただこの箇所のヘブライ語では「住む」と書かれているのではなく、「帰る、もどる」、もっと強く訳せば「悔い改めて もどる」となります(左近 淑)。  
 時代と共に行われてきた聖書の翻訳ですし、そこにはその時代の最も優れた英知が結集されていることは確かでしょう。そのうえで、新共同訳聖書での詩編の翻訳に尽力された左近先生の指摘は大変重要だと思いますので、ここで先生の私訳も紹介しておきましょう。  
「恵みといつくしみがわたしを追いかけてくるから、わたしは、わたしの一生涯、くりかえし、くりかえし、主の宮にもどってまいります。」(23:6 左近 淑訳)

福寿草。別名元日草
花言葉は「幸せを招く」「永久の幸福」

この詩人は自分の人生の終わりを見つめながらも、神さまに導かれてこの世の旅路を終えたなら、わが故郷である主の家に帰ろう。そこには永遠の祝福が約束されているのだからと告白しています。「命あるかぎり」、この人生が続くかぎり、「恵みと慈しみがいつも私を追う」とは、たとえどんなに乏しい中に置かれ、死の陰の谷を歩むような恐怖のどん底にあろうと、まことの牧者なる主の家に連れもどしていただける確信があります。しかも私たちにとって「日の続くかぎり」とは、この世の旅路の後に約束されている永遠の命にまで達します。十字架と復活の主イエスこそ、その約束の保証人であり、完成者なのですから。
 121年となる西千葉教会の歩みの中で、詩編23編から年間主題が選ばれたことはありません。この詩編がくりかえし礼拝の中で告白されてきたからでしょうか。その恵みを踏まえ、新たな思いでこの御言葉に立ち返りましょう。
 主の年2026年も私たちにはまことの牧者をしっかりと見据え、その御足の跡に従うことが求められています。

文:真壁 巌 牧師